リレー随想
2020/04/07
No.201 2020年5月号 1977(昭和52)年卒 佐々木敏弥
「タイムトンネルをくぐり抜ければ過去へ」(人生を振り返って)
同窓会札幌支部の能登谷事務局長からリレー随想201番目のランナーとしてバトンを引き継いだ、札幌在住1977年(S52年)卒業の佐々木と申します。早いもので大学卒業後43年が経過し銀行員生活を経て現在はある団体に経理の嘱託として勤務。又同窓会札幌支部の幹事長業務を引き受けております。
人生は山あり谷ありと申しますが、勤務先の破綻、脳の病気・腰の病気等を患いつつ現在に至りました、この随想を機にタイムトンネルをくぐり抜け己の人生を振り返っていきたいと思います。
*タイムトンネル・・・1967年から放送されたNHKのSF人気ドラマ
<学生時代>
S48(1973)年4月に札幌から高崎市下小塙町にある17名の学生が入居する下宿へ転居し、同期は4名で1人もアパート等に移ることなく4年間寝食を共にしました。部屋代は一畳1,000円四畳半4,500円で授業料も年間35,000円(国立大学は36,000円)と今では考えられない金額でした。ちなみに仕送りは30,000円、家庭教師のバイトで20,000を稼いでいました。
下宿では風呂当番制度があり、1・2年生が順番で風呂当番を担当。その後一番風呂に入り4年から下級生へと入浴していくシステムでした。風呂関連ではいたずらも盛んでパンツを隠されたり、入浴中不在の締め切った部屋に蚊取り線香を何本もたかれ部屋中が煙で充満し大騒ぎになるなど、いろいろなことが起こっていました。初めての団体生活で上級生との接し方、下級生との接し方等、すなわち社会の縮図を経験した時代でもありました。
ゼミは農業経済のゼミ(新井ゼミ)を選択し教授のお供で3年の年末に千葉県の四街道方面に農家の実態調査に行ったこと。卒論では高崎近郊の農家を訪問し複合経営について調査したことなどが記憶に残っています。
読書においては私小説・社会派的なものを好むも乱読しており、柴田翔・石川達三・吉行淳之介・遠藤周作・大江健三郎・高橋和巳・柏原兵三・庄司薫・宮原昭夫・小田実等々懐かしい名前が思い出されます。また女子大生の日記であった「二十歳の原点」にはいろいろなことを考えさせられました
就職活動に関して1970年代は青田買いの全盛時代。3年で就職が決まっていましたが、1976年から4年生の10月1日会社訪問開始、11月1日選考開始と大きく変わり、わたくしも11月上旬に道内の銀行からどうにか内定を得ることができました。その間銀行からの連絡は全て下宿への電報で訪問日時が指定されていました。今では携帯電話かメールだと思いますが当時は電報という状況でした。
なお当時は長い髪が流行しており、就職が決まって床屋で髪を切っている時ラジオからバンバンの「いちご白書」が流れ、2番の歌詞「就職が決まって髪を切ってきた時もう若くないねと・・・」が強烈な印象として残っており今でも当時の状況が目に浮かびます。
高崎経済大学経済学部経済学科を卒業し銀行は倒産しないと信じていた学生はいよいよ銀行員としての第一歩を迎えます。
<銀行員時代>
室蘭で銀行員生活がスタートし、寮生活であったため高崎時代の下宿の上下関係が役に立ちました。預金・為替・窓口業務を経験し渉外担当者となり、その後開設店舗に転勤。時間外手当が給料と同程度となるも使う時間もありませんでしたが、全て結婚資金で消えました。
3か店目で役付となり4か店目で初めて融資課に配属され企業融資を担当。日中はお客様の対応に追われ融資の起案業務はシャッターが閉まった15時からが勝負という状況でした。当時の支店体制は預金・為替を扱う業務課、法人・個人融資・外国為替等を扱う融資課、法人・個人預金等を扱う渉外課に分かれており、一つの企業に対し融資と渉外の2名が担当者ということでした。但し融資判断は融資担当者と渉外担当者の協議により決定されていました。
5か店目で渉外課長となり6カ店目では営業店が新しい体制となり営業課の課長に就任しました。新体制は融資判断等を迅速に対応すべく一つの企業を1名で担当することになり、融資課と渉外課が合体し営業課としてスタートしました。課長としては預金計数・融資計数等の管理を中心に支店の業績アップを目指していました。
7か店目で指定金融機関業務を行う公金店舗で副支店長となりましたが、そこで銀行が破綻することになるのです。公金店舗では地公体の一時借入(短期借入)や縁故債(長期借入)及び指定金融機関業務を行っていました。ところが本部から地公体への貸出は資金的に厳しく困難との話があり、指定金先の財政課と協議し「地公体の調達先は指定金一行であったが入札方式の導入により調達先を分散する」という交渉が成立しました。当時の財政課には本当に苦労をかけたと思います。しかしその努力も虚しく金融機関が決済用の資金を短期でやりとりするインタ-バンク市場からの資金調達が困難になり1997年11月に破綻することになったのです。
不良債権→株価下落→信用不安→預金流出→資金調達困難→破綻という流れです。
破綻後は指定金業務を譲渡銀行とすべく交渉、部下行員の再就職等問題山積みのなか結果として1年後指定金業務は譲渡銀行に決定し行員を含め業務すべてが譲渡銀行へ引き継がれることとなりました。その後2か店で支店長を経験し本部の公務金融部へ異動しました。その間第三セクターである産業振興財団へ2年間出向することになるのですが、非常に有意義で充実した2年間でした。「道産品の道内商社を利用した道内港からの東アジアへの輸出を!」を合言葉に道産品の輸出増強及び共同物流の推進業務を担当、特に輸出関連に関しては香港・シンガポール・台湾での道産品の商談会を通じマッチングに注力。更にインボイス(送り状)の作成など具体的な貿易実務も行っていきました。
出向後、公務金融部に戻るも脳・腰の病気を発症したため関連会社に移り42年の銀行員生活を終えました。その間大学の岸 札幌支部前会長をはじめ先輩・後輩には色々助けられ、更には同じ銀行に勤務していた二人の同期には本当にお世話になりました。
つたない自分史を徒然なるままに書き綴ってきましたが、ここで大学同期、同じ銀行で苦労を共にしたサッカー部OBで同窓会札幌支部の石山会長にバトンを引き継ぎます。
(札幌市在住)
2020/03/05
No.200 2020年4月号 1987(昭和62)年卒 能登谷聡
同窓会活動と『学歌聖歌隊2019 ~7人の侍~』◆光陰矢の如し、月日はあっという間に過ぎ去っていきます。
わたしが卒業してから、すでに30数年が経ちました。
この間、喜びがあれば、悲しみもあり、傷ついては復活・再生を繰り返しながら、人としての学びを深めてきたように思います。
ちなみに、人生最大の危機は、約10年ほど前になりましょうか、心臓が6回ほど止ったことです。4回目のときは、幽体離脱体験までしてしまいました。
しかし、その都度、運よく生き返ってきましたので、娘からは、不死身」と揶揄されるほどでした。
今回、縁あって、こうしてリレー随想に参加させていただけることに感謝いたします。
◆さて、本稿では高経大同窓会札幌支部について、触れてみようと思います。
わたしは、札幌支部事務局をお預かりしている関係上、自分から見た札幌支部について記したいと思います。
札幌支部は、50年の歴史があり、現在の会員数は800名を超え、高経大同窓会支部としては、全国3番目の規模だそうです。1・2番は、群馬と東京ですね。これらの次になるそうです。
◆実は、わたしは、療養中だった約4年ほど前、前支部長の岸稔先輩から事務局をお任せいただくことになったのですが、お引き受けした時は、体調面での自信はありませんでした。
また、札幌支部の状況が、総会や懇親会への出席者数が過去最低の水準にありました。
こうした理由から、不安と危機感を抱きつつ、同窓会活動の活性化を図る必要性を感じていました。
◆当初はそのような思いを抱いていたのですが、当時、役員が大幅に入れ替わったこともあり、幸いにも新たな役員の方たちは、会長、副会長をはじめとして、行動的な先輩や幹事の仲間が多く、ポジティブな取り組みができる環境に恵まれたのです。
ただし、それまでがネガティブだったということではありませんので、その点は誤解なきように。
◆そして、参加者が楽しいと感じられる同窓会の在り方を探りました。原点に返る必要があったわけです。その後、同窓会活動活性化のための具体的な取り組みについて、私たちは身の丈に合わせ、できることから着手しました。
まずは、懇親会での抽選による景品(群馬産品)のリニューアル、WEBサイト(ホームページ)の設置、『学歌聖歌隊』の結成、役員・幹事の体制面の簡素化、これに伴う規約改正等を矢継ぎ早に行ってきたのです。
◆ちなみに、札幌支部のWEBサイトは、私が独学で身に付けたHTML5&CSS3及びjQueryを加えて製作した完全オリジナル作品です。当初は主にパソコン向けに、今とは違うデザイン・レイアウトにしていました。
しかし、スマホのアクセス率が5割程度に伸びてきたので、スマホでも見やすい仕様に変更すべく、幾つかデザインしたのですが、結局一番シンプルなものが一番見やすいという結論に至り、現在のような仕様になりました。このような経緯がありました。
◆ところで、余談ですが、同窓会活動の中で、とりわけ一番印象深かったことは、実は『学歌聖歌隊』で歌うことです。実はわたしは、学歌に強い思い入れがあるためです。学生の時の記憶が蘇ります。
札幌支部の懇親会では、最後に学歌を全体合唱するのですが、そのリード役を担うのです。
わたしは、元来の歌好きのせいもあり、大きな声で、力強く歌うことを楽しんでいます。
歌うことは、最高に心地よいですね!!
昨年度は、江畑同窓会本部副会長(元応援団長)のエールのもとで、小樽市長の迫先輩、飛び入り参加された村山学長を含む7名のOBたちとともに、壇上で力一杯合唱しました。
ちなみに、高木理事長は、壇下の先頭で、はつらつと歌われていました。その力強い仕草に、拝見している以上のエネルギーと若さを感じました。
『 学歌聖歌隊2019 ~7人の侍~ 』とても楽しかった思い出です。
もっとも、楽しんでいるのは、幹事の中では、わたしだけかもしれませんが…?(笑)
◆こうした役員や幹事の皆様方の支えや地道な活動によって、現在、徐々に効果が出始めています。
3年前は60名を下回る状態まで落ち込んでいましたが、2019年は総会・懇親会出席者が80名を超えてきました。この場をお借りして、役員並びに会員の皆様方にお礼申し上げたいと思います。
最後に、本稿を執筆している時期は、ちょうど新型コロナウィルスが北海道で感染拡大し始めている時期に重なってしまいましたが、北海道道外の方でも都合が付くようでしたら、参加いただけますので、ご遠慮なく事務局までメールをください。
全国にいらっしゃる同窓生の皆様が、これからもご健勝でありますように、「新型コロナウィルスに負けるつもりがない北の住人」から力強くエールをお送りいたします!!
次は同じ同窓会札幌支部の佐々木幹事長に「リレー随想」のバトンをお渡しし、終わりたいと思います。
(北海道在住)