リレー随想

2020/05/17
No.202 2020年6月号 1977(昭和52)年卒 石山 信博
「サッカー部との巡り合い」

同期で職場も一緒だった佐々木敏弥君から引き継いだ随想リレー・202番目ランナーの石山です。

昨年、42年半勤めた銀行(関連会社時代を含む)を定年退職し、のんびり余生をと考えておりましたが、縁あって11月から公益財団法人札幌スキー連盟に再就職致しました。
雪不足で1月初旬の3大会が開催出来ず、その後は順調に推移したものの、雪まつりを起点とする新型コロナウイルスの発生で、宮様大会以降のすべてが中止となり、私は「疫病神!?」と思わず塞ぎ込む日々です。

入学は1973年、北見市近郊の小さな町から“国鉄”で特急・青函連絡船・特急を乗り継いで約22時間!! 何とも長い旅でした。
高校の先輩で友人の兄が在籍していた事からサッカー部に入部。毎日大学には通うものの校舎まで辿り着かずにグラウンド止り。
卒業後、何年も『あの単位は本当に取得したのか?!』と夢に出てくる始末で今になって反省(遅過ぎますね)。

銀行に就職して果たして務まるのか・・・?

ここで活きたのはサッカー部での経験でした。当時は群馬県リーグ(4部制)で2部の中間ぐらいの成績で、チームの半数近くが私を含めサッカー未経験者であった割には善戦したのかなぁと思います。その要因は、高橋章先生(残念な事に昨年ご逝去)のもと、今でいう「ワンチーム」ななれた事であったように感じます。
未経験のうえにゴールキーパーを勧められ、守備・攻撃・キーパー練習と一日中休みなく、何をどうしていいのかもわからずに2年が過ぎ、3年でようやくレギュラーとなったものの経験不足は否めず、仲間に何度迷惑をかけた事か・・・。そんな素人の私に対して高橋先生をはじめ、周囲の人たちは見捨てる事なく、特に同期がどれだけ心強い存在であったか!!あの苦しい練習を経験したからこそ、銀行員生活を乗り切るのだと感謝しております。
田舎育ちで人見知りであった私を変えてくれたのもサッカー部でした。

銀行は個々の能力以上にチームワークが大事な職場です。先輩に限らず、同期・後輩に助けられ業務を遂行する事が出来ました。私個人の能力だけを求められたら定年まで務めあげるのは厳しかったと思います。大学生活は本当に得られるものが大きく、特に高経で学べたのは何にも変え難い貴重な経験であったと痛感しております。
現在は仕事の傍ら、同窓会札幌支部の会長をさせていただいております。リレーのバトンを渡された佐々木幹事長、その前の能登谷事務局長らに助けられ、何とか勤めております。

支部活動としては、毎年8月に就職支援相談会、10月には総会・懇親会を行っていますが、コロナの影響で本年の開催が危ぶまれています。北海道は感染者数が1千人に迫り、各種イベントが中止の状況にあります。外出儘ならぬ中、皆さんが健康を損ねる事のないよう祈念しております。

次のバトンは、北海道が続きましたので、横浜在住でサッカー同期、私の精神的支柱であった青柳繁良君に引き継ぎします。
(北広島市在住)
2020/04/07
No.201 2020年5月号 1977(昭和52)年卒 佐々木敏弥
「タイムトンネルをくぐり抜ければ過去へ」
(人生を振り返って)

 同窓会札幌支部の能登谷事務局長からリレー随想201番目のランナーとしてバトンを引き継いだ、札幌在住1977年(S52年)卒業の佐々木と申します。早いもので大学卒業後43年が経過し銀行員生活を経て現在はある団体に経理の嘱託として勤務。又同窓会札幌支部の幹事長業務を引き受けております。
 人生は山あり谷ありと申しますが、勤務先の破綻、脳の病気・腰の病気等を患いつつ現在に至りました、この随想を機にタイムトンネルをくぐり抜け己の人生を振り返っていきたいと思います。
*タイムトンネル・・・1967年から放送されたNHKのSF人気ドラマ

<学生時代>
S48(1973)年4月に札幌から高崎市下小塙町にある17名の学生が入居する下宿へ転居し、同期は4名で1人もアパート等に移ることなく4年間寝食を共にしました。部屋代は一畳1,000円四畳半4,500円で授業料も年間35,000円(国立大学は36,000円)と今では考えられない金額でした。ちなみに仕送りは30,000円、家庭教師のバイトで20,000を稼いでいました。
下宿では風呂当番制度があり、1・2年生が順番で風呂当番を担当。その後一番風呂に入り4年から下級生へと入浴していくシステムでした。風呂関連ではいたずらも盛んでパンツを隠されたり、入浴中不在の締め切った部屋に蚊取り線香を何本もたかれ部屋中が煙で充満し大騒ぎになるなど、いろいろなことが起こっていました。初めての団体生活で上級生との接し方、下級生との接し方等、すなわち社会の縮図を経験した時代でもありました。
ゼミは農業経済のゼミ(新井ゼミ)を選択し教授のお供で3年の年末に千葉県の四街道方面に農家の実態調査に行ったこと。卒論では高崎近郊の農家を訪問し複合経営について調査したことなどが記憶に残っています。
読書においては私小説・社会派的なものを好むも乱読しており、柴田翔・石川達三・吉行淳之介・遠藤周作・大江健三郎・高橋和巳・柏原兵三・庄司薫・宮原昭夫・小田実等々懐かしい名前が思い出されます。また女子大生の日記であった「二十歳の原点」にはいろいろなことを考えさせられました
 就職活動に関して1970年代は青田買いの全盛時代。3年で就職が決まっていましたが、1976年から4年生の10月1日会社訪問開始、11月1日選考開始と大きく変わり、わたくしも11月上旬に道内の銀行からどうにか内定を得ることができました。その間銀行からの連絡は全て下宿への電報で訪問日時が指定されていました。今では携帯電話かメールだと思いますが当時は電報という状況でした。
なお当時は長い髪が流行しており、就職が決まって床屋で髪を切っている時ラジオからバンバンの「いちご白書」が流れ、2番の歌詞「就職が決まって髪を切ってきた時もう若くないねと・・・」が強烈な印象として残っており今でも当時の状況が目に浮かびます。
 高崎経済大学経済学部経済学科を卒業し銀行は倒産しないと信じていた学生はいよいよ銀行員としての第一歩を迎えます。

<銀行員時代>
 室蘭で銀行員生活がスタートし、寮生活であったため高崎時代の下宿の上下関係が役に立ちました。預金・為替・窓口業務を経験し渉外担当者となり、その後開設店舗に転勤。時間外手当が給料と同程度となるも使う時間もありませんでしたが、全て結婚資金で消えました。
 3か店目で役付となり4か店目で初めて融資課に配属され企業融資を担当。日中はお客様の対応に追われ融資の起案業務はシャッターが閉まった15時からが勝負という状況でした。当時の支店体制は預金・為替を扱う業務課、法人・個人融資・外国為替等を扱う融資課、法人・個人預金等を扱う渉外課に分かれており、一つの企業に対し融資と渉外の2名が担当者ということでした。但し融資判断は融資担当者と渉外担当者の協議により決定されていました。
5か店目で渉外課長となり6カ店目では営業店が新しい体制となり営業課の課長に就任しました。新体制は融資判断等を迅速に対応すべく一つの企業を1名で担当することになり、融資課と渉外課が合体し営業課としてスタートしました。課長としては預金計数・融資計数等の管理を中心に支店の業績アップを目指していました。
7か店目で指定金融機関業務を行う公金店舗で副支店長となりましたが、そこで銀行が破綻することになるのです。公金店舗では地公体の一時借入(短期借入)や縁故債(長期借入)及び指定金融機関業務を行っていました。ところが本部から地公体への貸出は資金的に厳しく困難との話があり、指定金先の財政課と協議し「地公体の調達先は指定金一行であったが入札方式の導入により調達先を分散する」という交渉が成立しました。当時の財政課には本当に苦労をかけたと思います。しかしその努力も虚しく金融機関が決済用の資金を短期でやりとりするインタ−バンク市場からの資金調達が困難になり1997年11月に破綻することになったのです。
不良債権→株価下落→信用不安→預金流出→資金調達困難→破綻という流れです。
破綻後は指定金業務を譲渡銀行とすべく交渉、部下行員の再就職等問題山積みのなか結果として1年後指定金業務は譲渡銀行に決定し行員を含め業務すべてが譲渡銀行へ引き継がれることとなりました。その後2か店で支店長を経験し本部の公務金融部へ異動しました。その間第三セクターである産業振興財団へ2年間出向することになるのですが、非常に有意義で充実した2年間でした。「道産品の道内商社を利用した道内港からの東アジアへの輸出を!」を合言葉に道産品の輸出増強及び共同物流の推進業務を担当、特に輸出関連に関しては香港・シンガポール・台湾での道産品の商談会を通じマッチングに注力。更にインボイス(送り状)の作成など具体的な貿易実務も行っていきました。                                             
 出向後、公務金融部に戻るも脳・腰の病気を発症したため関連会社に移り42年の銀行員生活を終えました。その間大学の岸 札幌支部前会長をはじめ先輩・後輩には色々助けられ、更には同じ銀行に勤務していた二人の同期には本当にお世話になりました。
 つたない自分史を徒然なるままに書き綴ってきましたが、ここで大学同期、同じ銀行で苦労を共にしたサッカー部OBで同窓会札幌支部の石山会長にバトンを引き継ぎます。
(札幌市在住)

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