リレー随想
2025/11/25
No.267 2025年11月号 2025年卒 野崎 天資
「つながりが形づくる私の大学時代とこれから」小圷さんからバトンを受け取りました、2025年経済学部経済学科卒の野崎天資と申します。
小圷さんとは大学3年生の頃、友人と共に立ち上げた映像制作事業を進める中で知り合いました。それ以来、事業運営に関する助言からキャリアの悩みに至るまで、多くの場面でご指導をいただき、学生時代の私にとって貴重な道標となってくださいました。今回、こうしてバトンを受け取ることができたことに、あらためて深いご縁を感じております。
この「リレー随想」のバトンを受け取ってほしいと相談を受け、やりますと答えた後に分かったことですが、本企画のスタートした年は私の生まれた年と同じでありました。この企画の歴史と同窓のOB・OGの先輩方との繋がりを感じながら大学時代を振り返りたいと思います。
まず、大学生活全体を顧みて感じたのは、意外にもキャンパスで過ごした記憶が少ないということでした。サークルや部活動に長く所属することがなかったため、学生らしいキャンパスライフとは少し異なる過ごし方をしていたのだと思います。大学入学後、剣道部に所属し一定期間は活動していましたが、自身の興味関心が外へと向かい始め、また、価値観を共有できる友人ができたこともあり、1年ほどで退部いたしました。
当時は、華やかな学生生活を送る同級生を羨ましく思う瞬間もありました。しかし、多くなくとも、深く信頼できる友人に恵まれたことは、今振り返れば何にも代えがたい財産であったと感じています。彼らと過ごした時間が、自分の価値観や将来の考え方を形づくる大きな支えとなりました。
その後、大学生活の大半を費やしたのが、01PRODUCTIONという映像制作チームの立ち上げと活動でした。広告映像やイベント記録映像、地域プロモーション映像など、多岐にわたる案件を担当し、大手企業から地域に根差した団体まで、幅広い方々と仕事をご一緒する機会に恵まれました。学生という立場でこうした実務に深く関われたことは、自分にとって大きな挑戦であり、成長の場でありました。
活動を通じて痛感したのは、人とのつながりが仕事を形づくる根幹であるということでした。大きな案件であっても、きっかけは一度の会話で名前を覚えていただいたことや、SNSで偶然目に留めてもらえた作品であったりしました。一方で、小さな仕事であっても、多くの人々の思いや関係性が折り重なって成立していることを知りました。こうした“つながりの連鎖”に自分も少しずつ関わらせていただけた経験は、学生時代の私にとって得難い学びであり、社会に出た後も大きな支えとなっています。
現在、私は金融系の事業会社にて、不動産を対象とした機関投資家としての業務に従事しています。開発案件への出資検討や売買入札の対応など、日々新しい知識が求められる環境に身を置いています。専門用語や慣習、業界特有のスピード感に戸惑うことも多いですが、その都度学びながら自分の仕事を少しずつ形にしている最中です。社会人としてまだ半年ほどではありますが、学生時代に感じていた「つながりの重要性」は、いま、さらに実感をもって胸に染みています。
その意味でも、東京三扇会の幹事会に参加し、諸先輩方と直接お話しさせていただく機会は、非常に貴重なものとなっています。異なる世代の先輩方が、同じ大学の卒業生として自然につながり、経験を共有し合える場が存在することは、私にとって大きな励みであり、社会人としての視野や価値観を広げてくれるものです。いただいた言葉や学びを、自分の中に丁寧に蓄えながら、今後の仕事や人生の選択に活かしていきたいと感じています。
このような恵まれた環境に身を置けていることに感謝しつつ、いつか自分も後輩たちにとって頼れる存在として関わることができればと思います。
次回のバトンは、地元で活躍している剣道部時代の仲間に託したいと思います。
そして、もしこの「リレー随想」がいつかまた私のもとへ戻ってくる日があるなら、その時には、今より少しでも成長した自分でいられたらと願いながら、締めくくりたいと思います。
(東京都在住)
2025/10/20
No.266 2025年10月号 2016年度卒 小圷 琢己
「大学時代の迷いが、いまの仕事の原点に」――きっかけをデザインするという地元ではない群馬県での挑戦
暗い気持ちで臨んだ2013年4月、高崎経済大学の入学式。周囲は明るい声と笑顔であふれていた。けれど私は、一人、重たい気持ちで講堂の席に座っていた。SNSを通じてすでに友人関係ができあがっている新入生たちの輪に、入ることができなかった。空いている席もなく、私は前から4列目の、ぽつんと空いた椅子に腰を下ろした。
入学してからの数か月、友人はほとんどいなかった。できなかったというより、「作ってはいけない」と思っていた。
二度の受験失敗を経て、ようやくたどり着いたこの大学で、私はもう同じ失敗を繰り返したくなかった。群れて楽しむことは、また“落ちこぼれる未来”につながる気がして怖かった。
授業を受けては図書館で本を読み、夜はレンタルビデオ店で映画を借りて一人で観る。そんな生活を半年ほど続けた。淡々と過ぎる日々。気づけば季節は秋になっていた。
転機は、大学1年生、二十歳の11月。高崎市で行われた地域の交流会なるものに、なんとなく参加した時のことだった。知らない人ばかりの空間。名札をかけた大人たちの輪の中に、居心地の悪さを感じながら立っていた私のもとへ、ひとりの社会人が話しかけてくれた。その人は、地域で新しい事業を立ち上げようとしている若手経営者だった。目の前で語られる言葉に、なぜか心を奪われた。
「群馬みたいな地方でも、面白いことはできるよ」その言葉が、ずっと胸に残った。
その日を境に、私の大学生活は少しずつ変わっていった。行動すれば何かが変わる。たった一度の出会いで、自分の未来が動き出す。その感覚が、暗闇に差した光のように心に残った。
それからの私は、いろいろなことに挑戦した。留学に行ってみたり、ヒッチハイクで日本を旅してみたり。大学3年生の冬には、小さな事業を立ち上げ、月に数万円をアルバイト以外で稼げるようになった。
“行動すれば人生は変わる”という手応えを感じた。
そして迎えた就職活動。
私は大手企業からの内定を自ら辞退し、地元でもない群馬県内の小さなIT企業への就職を決めた。あの頃の私なら、絶対に選ばなかった道だ。
「理想のキャリア」から外れることを、何より恐れていた自分が、今度は自分の意志でそこから外れていく。
それは不安でもあり、どこか清々しくもあった。
この選択が正しかったのかどうか、20代は非常に不安だった。
けれど、30代になった今、仲間も増えて、「正解」のキャリアだし、自分らしい生き方だなと心底思える。しかも、正解にできるかどうかは自分次第(自分の行動)だと思っている。与えられた環境を嘆くより、自分でその環境を面白くしていく。そう思いながら、日々の仕事に向き合ってきた。
その後、私は独立し、「株式会社キャリコ」を立ち上げた。
高校生から社会人まで、地域で挑戦したい若者と、想いある企業をつなぐ“きっかけ”をデザインする仕事をしている。群馬という土地は、私にとって地元ではない。それでも、この場所には確かな温度がある。東京のようなスピードはないけれど、時間の流れの中で、人の思いがじっくりと形になっていく。
そして今、私は新しい挑戦を考えている。
まだ「ハローキャリア(通称:ハロキャリ)」という場所はない。
けれど、いつかこの群馬に、学生と企業、そして地域の人たちが自然に交わる場をつくりたいと思っている。企業協賛や採用広報費で成り立つワーキングスペースとして、高崎経済大学の学生たちがふらっと立ち寄れる「キャリアの入り口」をつくりたい。
“ワーク<キャリア”――働くことよりも、生き方そのものを考えられる場所にしたい。
誰かがふと訪れ、何気ない会話の中で「やってみよう」と思えるような空間。それが、私にとってのハロキャリの理想だ。あの日、地域の交流会で自分の人生が少し動き出したように、今度は誰かのきっかけを生む側にまわりたい。この文章が、そんな私の想いを知ってもらうための、最初の一歩になればいいと思っている。
今、強く感じているのは、地方の若者の生きる選択肢を広げたいということだ。
群馬や北関東で、夢を描き、働き、生きる人がもっと増えてほしい。
“働く”がつらいことではなく、”自分の人生を彩る手段”に変わるような社会をつくりたい。
あの日、孤独な気持ちで臨んだ入学式の自分に伝えたい。
失敗してもいい。迷ってもいい。
その迷いこそが、君の原点になる。
そして、きっとその先に、
“きっかけをデザインする”側になる生き方が待っているのだと。
株式会社キャリコ 代表取締役 小圷琢己(コアクツタクミ)
東京在住(本社群馬県高崎市)