リレー随想

2025/07/18
No.263 2025年7月号 2011年度卒 郡司 弘明
「手を挙げた先にあった、想像もしなかった未来」

松本悟さんからバトンを受け取りました、郡司弘明と申します。
 
現在は、ビジネスイベントの企画や運営に携わっています。多くの人の挑戦や出会いのきっかけとなる「場」をつくることに、大きなやりがいを感じながら日々を過ごしています。
このような仕事に向き合ううえでの価値観や、人との関係の築き方についての感覚の土台は、間違いなく高崎経済大学で過ごした4年間のなかで育まれました。今の自分の軸は、その大学生活のなかに詰まっていると実感しています。
私は福島県出身です。高校時代は、進路や勉強以上に、人間関係の悩みを抱えることが多く、思い悩む場面も少なくありませんでした。
当時の私は、人との距離感に悩むことが多く、どこか自分に自信を持ちきれずにいました。うまくいかないことがあるたびに、「やっぱり自分には向いていないのかもしれない」と感じてしまうこともあり、気づけば自己肯定感が少しずつ下がっていたように思います。
そんな背景もあって、大学進学で地元を離れ、新しい環境に身を置くことは、私にとってひとつの大きな転機でした。
「ここから自分を変えていきたい」という気持ちをどこかに抱きながら、私は高崎の街に足を踏み入れました。

高崎経済大学には、全国から個性豊かな学生たちが集まってきます。都市部だけでなく、私のように地方から上京してきた学生も多く、それぞれが異なる背景や価値観を持っていて、誰かと比べるのではなく、自分自身の色を持つことの大切さを教えてくれる空気がありました。
最初に踏み出したのは、大学生活が始まってすぐ、何かに関わってみたいという思いから参加した地域政策学部ゼミナール協議会の定期総会でした。この協議会には本来、ゼミに所属する3年生から参加するのが通例で、1年生の私が顔を出すのは極めて珍しいことでした。場違いかもしれないという不安も抱えながら、それでも会の雰囲気や先輩たちの真剣な議論に心を動かされ、「自分も関わってみたい」と思い、「参加したいです」と声を上げました。
その当時、制度上はまだ1・2年生の正式な参加は認められていませんでしたが、非公式な形で活動をスタートしました。翌春の新入生勧誘では、何人かの1年生が「会則が変更されることを前提に」、活動に加わってくれました。後輩に私も大きく背中を押される形で、2年生で会則の改定を提案し、協議会内での議論を重ねたうえで、地域政策学部の総会にて正式に承認されました。その後、2年間、協議会の会長を務めさせていただきました。
この会則改定により、私自身も制度のなかで正式に活動できるようになり、1年生の参加も制度として整備された新たな協議会運営がスタートしました。

その年に加わってくれたのが、今回バトンを渡してくれた松本悟さんです。彼をはじめ、優秀で熱意ある後輩たちが数多く参加してくれたことは、当時の私にとって大きな励みであり、誇りでもありました。
制度や組織のあり方を自分たちの手で考え、形づくっていくという経験は、学生生活のなかでもとても得難いものでした。それまで「決められた枠の中でどう動くか」を考えていた自分が、「その枠自体を必要に応じて見直し、変えていく」という視点を持てるようになったのは、まさにこの経験のおかげだと思います。

また、戸所先生のゼミでは、榛名神社周辺の社家町活性化プロジェクトに取り組みました。地域の歴史や文化に触れながら、どのようにそれらを未来へとつないでいけるかを、現地の方々とともに考え続けた日々。教室では学べない“地域のリアル”と向き合いながら、仲間とともに過ごした時間は、言葉にしがたいほど濃密で、今でも鮮明に思い出されます。

群馬県という土地には、人と人との距離が近く、互いを思いやる温かさがあります。決して派手ではないけれど、素朴で、実直で、人とのつながりを大切にする文化。地域の方々とのやり取りの中で、私は「つながる」ということの意味を実感として学ぶことができました。

三扇祭の運営を取り仕切っていた三扇祭実行委員会とも同じ学生団体同士で連携しており、その関わりのなかでは、のちに妻となる人と出会うことができました。どこでどうつながるか分からない大学の人間関係のなかで、自分が最初に踏み出した一歩が、めぐりめぐって人生の大切な出会いにつながっていたことに、後から気づかされました。

今でもよく思い返すのが、2011年3月11日、東日本大震災の日のことです。ちょうど福島に帰省していたタイミングで被災し、原発事故の影響もあって、家族と過ごした日々には言葉にできない緊張感がありました。当たり前のように存在していた日常が、一気に崩れていく感覚。その中で、「ただ“普通”に接してくれる」人たちの存在が、どれほどありがたかったかを痛感しました。
高崎に戻ってからも、大学の友人たちがさりげなく寄り添ってくれました。「大丈夫?」と声をかけてくれたり、普段通りの調子で話してくれたり。大げさなことではなく、日常の延長にあるやさしさが、何よりの支えになりました。

こうして振り返ってみると、高崎経済大学での4年間には、ここに書ききれないほど多くの人との出会い、知識との出会い、経験との出会いがありました。どれもが、自分にとっての“かけがえのないピース”だったと思います。そしてそのすべては、たったひとつの「参加したいです」という言葉から始まりました。ほんの小さな一歩が、新しいつながりを生み、人生を少しずつ動かしていく。
大学時代の経験は、そんな感覚を教えてくれたように思います。あの一歩がなければ、松本さんはじめ多くの友人たちとも、妻とも、そして今の自分自身とも出会っていなかったかもしれません。

高崎経済大学には、私の青春のすべてが詰まっています。悩み、模索しながらも、少しずつ自分を肯定できるようになっていった時間。
個性豊かな仲間と出会い、地域の温かさに触れ、自分の小さな変化を積み重ねていけた場所。その過程で出会った仲間や経験は、今も私のなかで静かに息づいています。

このバトンは次回、私が大学時代に出会い、信頼する仲間のひとりへとお渡しします。
このリレーがまた、誰かの歩みを前に進めるきっかけになりますように。
(埼玉県在住)
2025/06/17
No.262 2025年6月号 2013年卒 松本 悟
「群馬に、三度(みたび)立つ」

運命的な出会いを果たした早川高史さんからバトンを受け取りました、松本 悟と申します。
同窓生とは知らず偶然お仕事をご一緒した、そんな縁からリレーに加わることができました。
つい最近、群馬県と今一度向き合う縁に恵まれたのでそのことを投稿しようと思います。

私は高崎経済大学を卒業し、全国転勤のメーカー営業として新潟県新潟市から社会人生活が始まりました。慣れない土地で、がむしゃらに働く日々。正解もわからないまま、お客様や会社の先輩の一言に一喜一憂し、少しずつ社会の厳しさと楽しさを学びました。

入社3年目には、営業企画部として大学時代を過ごした群馬県高崎市へ転勤となりました。戻ってきた街の風景は大きく変わっていませんでしたが、そこを歩く自分の感覚はどこか違っていました。JR高崎駅、夜遅くまで話し込んだ居酒屋、バイト終わりに友人たちと自然に集まって語り合った当時の自宅周辺・・・。思い出の1つひとつが、今では静かに心に残る宝物です。

大学時代は、周囲の友人の多くが大学近くに一人暮らしをしていて、日々顔を合わせ、特別な用事がなくても自然と一緒に時間を過ごしていました。あんなに多くの人と笑い合い、同じ時間を共有した経験は、人生の中でも本当に特別なもので、今でもその繋がりは大切な支えになっています。もう一度人生をやり直せるとしても、私は迷わずこの軌跡を辿りたいと思っています。

高校までは野球に打ち込み、机に向かうよりグラウンドにいる時間のほうが長かった私にとって、大学での学問との出会いは、自分の価値観を広げてくれるものでした。学生時代にもっと学べばよかったという後悔の念と同時に、この時に「学ぶことの意義」を知ったことは、今なお日々の仕事に向き合ううえでの原点になっています。

入社5年目を迎え群馬県に2度目の別れを告げた後、大阪のグループ会社への出向、そして出向復帰後は東京本社勤務と、長らく商品企画業務に従事することとなり、様々な場所へ赴き働く機会に恵まれました。それぞれの土地で出会った人や文化に刺激を受けながらも、ふとした瞬間に思い浮かぶのは、やはり群馬のこと。外の景色を見たからこそ、この歳になってその良さがさらに分かるようになりました。

そして2025年7月、再び群馬県高崎市への転勤が決まりました。今度は役割も立場も、そして家族との生活も含めてライフスタイルが大きく変わっての帰還となります。学生だった頃の自分とはまったく違う視点で三度(みたび)群馬と向き合うことになります。

大学での学びと群馬での時間が、今の自分を形づくってくれました。この街に育てられ、支えられてきたからこそ、これからは少しでもその恩返しができたら・・・そう思いながら、また群馬県で新たな一歩を踏み出す機会をいただいたことに感謝の気持ちでいっぱいです。

そんな感傷に浸りながら、私も次の方へバトンを繋ぎたいと思います。自分の大学生活に彩りをもたらしてくれた、今でも家族ぐるみで仲良くさせてもらっている素敵な先輩です。よろしくお願いします。
(東京都在住)

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