リレー随想
2025/01/14
No.257 2025年1月号 1978年卒 田中 充春
「大都会高崎へ」東北の田舎から出て、当時は大都会だと思った高崎で暮らした50年前、思いつくまま何の脈絡もなく書きました。
大学進学は授業料、住居費、生活費を考えると、とても首都圏の私立は望めないので大学案内の本を捲っていたら、年間授業料35,000円(国立より1,000円安い、弟の高校の授業料より安かった)、合格して寮の案内を貰ったら寮費月3,000円二食付き(食事は金額で想像がつく内容)で仕送りが10,000円もあれば十分生活できました。
寮は自炊ができる様な施設はなくガスコンロが1つあるだけ、カップラーメンはまだ一般的では無かったし、貧乏学生には高価だったので、大きな鍋でインスタントラーメンを数個同時に作って先輩と夜食、コーヒーカップと箸を持って鍋を囲んで(コーヒー)カップラーメン、食い負けると無くなるので熱くても夢中で食べました。
夏休み等には寮で食事がでなかったので、実家から送って貰った米を炊いて、おかずは鯖缶に納豆、家に帰らなかった人達で食事、納豆が嫌いだった関西人が他に食うものがなくて仕方なく食べていたら納豆が好きになりました。
生活に関する知識が無かったので、入学式で着たスーツが寮であっという間に虫に食われてしまって穴だらけ、入学式以外着る機会もなかったし高い買い物でした。
建物や生徒数に関して大学の規模は少し大きな高校位、慣れると見知った人が多くなり、寮に入った事もあり寂しいと感じた事はありませんでした。小規模な大学の良い所です。
La maisonという店のウィンドウ、カタカナ文字のラメイゾンの音の響きだけでラーメン屋さんと誤解して、都会では洒落た名前をラーメン屋さんに付けるんだなと思って覗いたらお菓子屋さんでした。
気候は冬でも雪が降らないでからっ風、見える山には雪があるのに麓には雪が降りてこない不思議、夕立も初めての経験でした、田舎ではめったに夕立というものは無かったので。晴れていたので窓を開けたままで授業に出ていたら突然の夕立、今まで雲一つなく晴れていたのにどうして。
ゴキブリも見た事がありませんでした。寮の北海道の先輩はゴキブリをカブトムシだと言っていました、カブトムシは北海道にはいないと言っていたので見た事がなかったのかもしれません。寮は餌が無かったからか出なかったので、板橋に住んでいた友達のアパートに遊びに行って初めて見ました。初めてなのと箒で追い出していたので少しユーモラスな動きだなとさえ思ったのですが、3年生で寮を出て北高崎駅近くのアパートで暮らすようになってからうようよと出て、隙間を塞いでもどこかから入って来る不気味さ、更に飛んで部屋に入って来るなんて、網戸なんてものが無かった当時、飛んでくるのは防ぎ様がありません。
(東京都国分寺市在住)
2024/12/06
No.256 2024年12月号 1978年卒 村上 幹夫
「住めば都、『三扇寮』の思い出」かつての務め先で同僚だった親子程の年齢差がある中原さんからバトンを受けた経済学部1978年卒の村上幹夫と申します。年金を頂く度に有難く思いますが、同時に月日の速さも直に肌で感じている世代です。
今日では大学周辺に数多くあった下宿も姿を変え、高経にも学生寮があった事を知らない方も多いと思います。一般学生からも少し離れた世界の、それでも住めば都だった私の寮生活・体験の一端を紹介致します。但し、記憶違い等はご容赦下さい。
光陰矢の如し、丁度50年前の春にタイムスリップしましょう。
新幹線がまだ無い遠い岩手県から高崎駅に降り立ち、期待と不安を覚えながらバスで大学へ。その先のグランドや武道館を越えた所に「三扇寮」がありました。建物は木造モルタル2階建の2棟、全27室。2年間の入寮期限でしたが、例外で3年生の寮長が1人、同期は30人強。私の部屋は長野県出身の2年生2人との3人住い。左右の2段ベッドを各々自前のカーテンで仕切り、上段同士で信州弁が飛び交っていました。
入寮後、最初の行事は新人歓迎ストーム。先輩達が控える談話室の入口で一人ずつ声高らかに自己紹介し入室。左右からドンブリに注がれた日本酒を飲み干して着座、そして宴会の流れ。初めての酒は特段の味も感じずに水のように飲み干せ‥‥が、その直後からは記憶喪失に。後日談では、その晩5人が急性アル中で入院の由。私もその夜から翌日夕方まで先輩の手厚い介護の元でダウン。以後、部屋の掃除や夜食の準備・後片付け等、長幼の序が自然に身につくご指導だったかも。
その後の新歓コンパは、部屋ごとで先輩の奢りで新人の希望する所に連れて行ってもらえるルール。この時が人生初、ホテルでの緊張フレンチディナー体験。(翌年春の追出しコンパは逆の立場。先輩達への義理を果たした筈、でしたが記憶も定かで無く、‥‥)
入学当初は受験勉強から解放された時期でも、少しは勉学に励む気持ちを胸に授業に出席。しかし、寮内では様々な経験や能力に秀でた諸先輩がいて、出席必須科目への対応や過去の試験時の模範解答?等、ノウハウが容易に取得できる場所。いつしかアルバイトに精を出すようになっていました。(個人差大)
生活面の代表例は先の談話室でのマージャンと居室でのトランプ。夜間制限のマージャンと異なり、居室に数人が集合するナポレオンゲームは、騙しと裏切りの渦巻く世界。興じて夜を明かすことが多々。その為、夜中に即席ラーメンを作り、石油ストーブに置いた鍋から上下無秩序にマグカップで啜る日常でした。
寮行事の目玉は寮祭のダンスパーティ。ダンパの前売りチケット販売は、大学の内外を問わず市中消化を目指して街の交差点での営業も。が、売上はサッパリ(会社での営業成績もむべなるかな)。同じく市内中心部まで繰り出す白昼の仮装行列。ディズニーパレードよろしく、出身地方ごとにチームで準備した100名足らずの市街行進。市民の注目と嘲笑、恥ずかしさが醸す微妙な雰囲気の中、寮生一体の「みんなで渡れば」と「旅の恥は掻き捨て」精神で何とか完歩、そそくさと帰寮したような。
少林山へのクロスカントリー、赤城山麓でのナイトハイク、高看女子寮との合ハイ等、「三扇寮」を舞台に巡るちょっと苦しくも楽しく懐かしい青春の一コマひとコマ。と、夢うつつから現実に‥‥。まだ綻びが目立たぬうちに次の走者にバトンを渡しましょう。
一年次の寮の隣室で、また退寮と共に借りた古い木造モルタル2階建ての同じアパートの住人でもあった田中充春君に引き取って頂きます。田中君、どうぞよしなに。
(東京都東村山市在住)