リレー随想
2025/10/20
	No.266 2025年10月号 2016年度卒 小圷 琢己
	「大学時代の迷いが、いまの仕事の原点に」――きっかけをデザインするという地元ではない群馬県での挑戦
暗い気持ちで臨んだ2013年4月、高崎経済大学の入学式。周囲は明るい声と笑顔であふれていた。けれど私は、一人、重たい気持ちで講堂の席に座っていた。SNSを通じてすでに友人関係ができあがっている新入生たちの輪に、入ることができなかった。空いている席もなく、私は前から4列目の、ぽつんと空いた椅子に腰を下ろした。
入学してからの数か月、友人はほとんどいなかった。できなかったというより、「作ってはいけない」と思っていた。
二度の受験失敗を経て、ようやくたどり着いたこの大学で、私はもう同じ失敗を繰り返したくなかった。群れて楽しむことは、また“落ちこぼれる未来”につながる気がして怖かった。
授業を受けては図書館で本を読み、夜はレンタルビデオ店で映画を借りて一人で観る。そんな生活を半年ほど続けた。淡々と過ぎる日々。気づけば季節は秋になっていた。
転機は、大学1年生、二十歳の11月。高崎市で行われた地域の交流会なるものに、なんとなく参加した時のことだった。知らない人ばかりの空間。名札をかけた大人たちの輪の中に、居心地の悪さを感じながら立っていた私のもとへ、ひとりの社会人が話しかけてくれた。その人は、地域で新しい事業を立ち上げようとしている若手経営者だった。目の前で語られる言葉に、なぜか心を奪われた。
「群馬みたいな地方でも、面白いことはできるよ」その言葉が、ずっと胸に残った。
その日を境に、私の大学生活は少しずつ変わっていった。行動すれば何かが変わる。たった一度の出会いで、自分の未来が動き出す。その感覚が、暗闇に差した光のように心に残った。
それからの私は、いろいろなことに挑戦した。留学に行ってみたり、ヒッチハイクで日本を旅してみたり。大学3年生の冬には、小さな事業を立ち上げ、月に数万円をアルバイト以外で稼げるようになった。
“行動すれば人生は変わる”という手応えを感じた。
そして迎えた就職活動。
私は大手企業からの内定を自ら辞退し、地元でもない群馬県内の小さなIT企業への就職を決めた。あの頃の私なら、絶対に選ばなかった道だ。
「理想のキャリア」から外れることを、何より恐れていた自分が、今度は自分の意志でそこから外れていく。
それは不安でもあり、どこか清々しくもあった。
この選択が正しかったのかどうか、20代は非常に不安だった。
けれど、30代になった今、仲間も増えて、「正解」のキャリアだし、自分らしい生き方だなと心底思える。しかも、正解にできるかどうかは自分次第(自分の行動)だと思っている。与えられた環境を嘆くより、自分でその環境を面白くしていく。そう思いながら、日々の仕事に向き合ってきた。
その後、私は独立し、「株式会社キャリコ」を立ち上げた。
高校生から社会人まで、地域で挑戦したい若者と、想いある企業をつなぐ“きっかけ”をデザインする仕事をしている。群馬という土地は、私にとって地元ではない。それでも、この場所には確かな温度がある。東京のようなスピードはないけれど、時間の流れの中で、人の思いがじっくりと形になっていく。
そして今、私は新しい挑戦を考えている。
まだ「ハローキャリア(通称:ハロキャリ)」という場所はない。
けれど、いつかこの群馬に、学生と企業、そして地域の人たちが自然に交わる場をつくりたいと思っている。企業協賛や採用広報費で成り立つワーキングスペースとして、高崎経済大学の学生たちがふらっと立ち寄れる「キャリアの入り口」をつくりたい。
“ワーク<キャリア”――働くことよりも、生き方そのものを考えられる場所にしたい。
誰かがふと訪れ、何気ない会話の中で「やってみよう」と思えるような空間。それが、私にとってのハロキャリの理想だ。あの日、地域の交流会で自分の人生が少し動き出したように、今度は誰かのきっかけを生む側にまわりたい。この文章が、そんな私の想いを知ってもらうための、最初の一歩になればいいと思っている。
今、強く感じているのは、地方の若者の生きる選択肢を広げたいということだ。
群馬や北関東で、夢を描き、働き、生きる人がもっと増えてほしい。
“働く”がつらいことではなく、”自分の人生を彩る手段”に変わるような社会をつくりたい。
あの日、孤独な気持ちで臨んだ入学式の自分に伝えたい。
失敗してもいい。迷ってもいい。
その迷いこそが、君の原点になる。
そして、きっとその先に、
“きっかけをデザインする”側になる生き方が待っているのだと。
株式会社キャリコ 代表取締役 小圷琢己(コアクツタクミ)
東京在住(本社群馬県高崎市)
2025/09/10
	No.265 2025年9月号 2010年度卒 渡辺 義之
	「とにかく楽しむ」手嶋光さんからバトンを受け取りました、2010年度 地域政策学部地域づくり学科卒の渡辺義之と申します。
現在は、自社サービスのシステム開発プロジェクトマネージャーとして働いています。バトンを渡してくださった手嶋さんとは、学生団体同士の交流で知り合い、学生時代は何度も酒を酌み交わした友人です。卒業から早14年、記憶も薄れつつありますが、当時のことを振り返ってみたいと思います。
【高崎の生活と、衝撃の夏】
大学1年の夏、高崎で生活して衝撃を受けたのは、とにかく気温が高いことでした。北海道出身の私にとって、関東の気候は未知の領域だったのです。北海道には梅雨も台風もなく、当時は気温30度を超える日も滅多にありません。しかし、高崎の夏は19歳の私にとって、想像をはるかに超える暑さでした。貧乏学生だった私は、少しでも電気代を節約しようと、エアコンをつけずに床に茣蓙(ござ)を敷いて寝ていました。多少涼しく眠れましたが、朝起きると体がバッキバキだったのは、今となっては懐かしい思い出です。
【サークル活動と、二つの出会い】
私の大学生活で記憶に色濃く残っているのは、「山野愛好会」と「文化サークル協議会本部議長団」での活動です。
山野愛好会は、主に登山やキャンプを行うアウトドアサークルでした。日本最高峰の富士山にも登りましたが、燕岳や八ヶ岳から見た景色は、富士山よりも印象的でした。大自然の偉大さを肌で感じ、標高の高い山ならではの醍醐味を教えてもらったように思います。
登山を通して身についたのは、長時間同じ作業を続けられる忍耐力と、早朝から活動できる精神力です。山野愛好会の合宿では、深夜・早朝集合は当たり前でした。若さをフル活用したようなハードなスケジュールでしたが、そのおかげか、この歳になっても早朝からの行動が苦になりません。旅行の際も朝5時出発で動けるのは、この経験で培われた「気合と根性」のおかげだと思っています。
そして、サークル活動以上に記憶に残っているのは、日々の飲み会です。印象的なエピソードはあまり覚えていませんが、他愛もない話をベロベロに酔っ払いながら語り合った時間が、とても幸せでした。今振り返ると、「なぜあんなに飲んだのだろう」と思うばかりですが、飲み会での先輩や後輩との関わりがあったからこそ、人との接し方や立ち振る舞いを学べたのだと思います。
次に、立候補して入った「文化サークル協議会本部議長団」についてです。当初、大学生活の思い出作りの一つとして、あまり目立たずに活動しようと考えていました。しかし、当初の目論見は見事に外れ、私は団体のトップである議長に就任することになりました。
これは誤算でしたが、山野愛好会で培った行動力で他団体とも積極的に交流を重ね、多くの仲間と最高の思い出を作ることができました。思い出は、やはり酒の席でのものがほとんどです。
この二つの団体での経験を通して私が学んだのは、忍耐力とコミュニケーションです。私は、自身が先導して周囲を引っ張っていくリーダーシップを発揮するタイプではありません。しかし、周りの意向を取り入れながら、皆で一緒に前に進んでいくことが楽しいと思えました。この経験が現在社会人としても仕事に取り組むうえでベースになっています。
【仲間と歩む、これからの道】
社会人になって10年以上が経ちましたが、今回このようにバトンを受け取る機会をいただいたのも、大学生活で培った「とにかく楽しむ」という姿勢が、良い結果につながったからだと感じています。
今回の寄稿を機に大学時代を振り返り、本当に多くの仲間に恵まれていたのだと改めて実感しました。この場所で得た経験と出会いは、私にとってかけがえのない一生の財産です。
(東京都在住)