リレー随想

2024/06/30
No.250 2024年6月号 2013年卒 山中 翔太
「ギリギリでいつも生きていました」

 森尻くんからバトンを受け継ぎました、地域政策学部2013年卒、山中と申します。250走者目とキリが良いのでちょっと嬉しいです。

 私の人生はとにかくギリギリでした。

 高校時代には授業中にこっそりとゲームをしてしまう様なクズ人間でした。中でも某有名ゲーム「FF」のクライシスコアというシリーズをPSPでやっていて、授業中に感動のエンディングを迎えて思わず泣いてしまったことが良い思い出です。
 そんな私でしたが、3年生になり、ある友達が大学に向けて必死に勉強をしてるのを見て、自分も看過されて勉強をし始めました。学校の授業だとどうしても寝てしまうので、自分で参考書を買い漁り勉強をすることにしました。その結果高崎経済大学に合格することが出来ました。ただ、授業をめんどくさがり欠席と遅刻を繰り返したため、何と後3日ほど欠席したら、卒業が出来ないところでした・・・。最低出席日数のことなんて全く知らなかったから、本当にギリギリで卒業してました。

 大学に入ってからは、アルバイトとパチンコに明け暮れる毎日・・・。そんな私の救いは暴れん坊の森尻くんと巨人族の男性と3人で始めた総合格闘技部でした。部の活動としては来たるべき戦いに備え、食を積むことでした。ラーメン屋と焼肉屋を駆け巡る毎日・・・。結局来たるべき戦いは来ませんでした。蓄えた肉だけが残りました。今でも取れません。
 その後、就活期に入ってもグダグダだらけていましたが、部の他の二人が就活という戦場で戦ってる姿を見ているうちに、自分だけ逃げていると感じて、気持ちを入れ替えました。その結果、第一志望だった地元の信用金庫から内定を貰えました。ここ以外受けてなかったから、落ちていたらどうしてたのかと思うと震えが止まりません。
 ただ、4年後期にも関わらず卒業までに18単位残ってることに気づきました。内定も貰ってるし、絶対に卒業せねば、という気持ちで授業を組み込む中であることに気づきました。そう、語学の単位が足りないことに・・・。通常は1、2年で終わっている語学の単位が取得できていないことに気づき、大急ぎでコンピューティングTの抽選を受けました。しかし、泣く泣く落選しました。そして私は、知識ゼロの中で、コンピューティングWを受講しました。Tは基本中の基本です。ではWはどうでしょう。そう、発展中の発展です。まさかJavaを使用して簡単なプログラミングをすることになるとは思いもしませんでした。しかも4年生にも関わらず、1限の授業です。みんなが楽しく卒業旅行とかしてる間、毎週1限のプログラミングをしに頑張ってました。「全ては卒業の為に・・・」この気持ちを胸に頑張った結果、無事コンピューティングの単位が取れました。やっと卒業できる!!そう思ったの束の間、「あれ?一個単位落としてる…」まさかの、ゼミの教授の試験で単位を落としていました。嘆願しましたが、もちろん再試験を受けることに・・・(再試験受けさせてもらえただけありがたいんですけどね)。全力で勉強しました。たぶん100点取った気がします。無事再試験を突破し、大学を卒業することが出来ました。
 因みに総合格闘技部の卒業旅行は横浜inカプセルホテルでした。金欠ダメ絶対。

 社会人としては、信用金庫に11年勤務しました。最初の支店ではトップ営業の先輩と一緒に仕事をさせてもらって、営業のノウハウ、センス、テクニック等々たくさん勉強させてもらいました。何より、この人みたいになりたいと思える先輩に早く出会えたのは本当に幸運でした。その後、大型店の厳しい店に配属となりました。この支店では「人格者」という言葉はこの人のためにあるものだといっても過言ではない、素晴らしい上司と出会いました。部下が間違ったことをした時にはしっかり注意をして、頑張ったらしっかり褒める。部下指導の基本中の基本かもしれません。しかし上司自身がどんな厳しい仕事をしてる時でも、このスタンスを崩さない姿が、理想の上司像そのものでした。
 そういった応援もあり、最後には営業成績も残すことが出来て、2位と1件差のギリギリで年間1位となれました。素晴らしい先輩と上司と仕事をさせてもらえたことも、非常にラッキーな「ギリギリ」だったと思っています。
 
 現在は、今年から群馬県職員として仕事をしています。いや、この流れで続けてないのかよってツッコミを入れたくなる人もいるかもしれません。すみません。ただどこにいってもギリギリの場面は訪れると思います。その際に、今まで培った経験を元に逆にギリギリをチャンスに活かすことが出来るような、「ギリギリでいつも生きていたい」と思うような人生を過ごしていきたいと思います。

 さあこんな私からバトンを受け継いでくれるのは、前職の信用金庫の後輩、鋼のメンタルと元気さが売りの石倉くんです!石倉、頼んだ!!
(群馬県在住)
2024/06/07
No.249 2024年5月号 2013年卒 森尻 修平
「遠回りは、近道でした。」

 森川くんからバトンをいただきました地域政策学部2013年卒の森尻と申します。

 振り返ると、遠回りばかりの人生でした。

 中学・高校とまったく勉強をしてこなかった私は、高校卒業後は、洋服が好きという理由だけでなんとなく東京の服飾専門学校に進学。入学してみると驚いたことに、クラスメイトの半分以上が年上でした。大学を卒業してから入った人だったり、会社を辞めてまで入学した人だったり。みんな、ファッションデザイナーになるという強い気持ちを持って入学していたのです。私は、そんなクラスメイトを見て自分が恥ずかしくなりました。情けなくなりました。
そして、今まで逃げてきた勉強と向き合うために、地元群馬に帰って大学を目指すことにしたのです。

 専門学校中退という多大なる迷惑を親にはかけてしまったので、狙いは地元の公立である高崎経済大学、一本。図書館に通い、中学1年の勉強からやり直しました。すると、あれだけ嫌いだった勉強がとにかく楽しくて楽しくて。好きこそ物の上手なれといいますが、あれ、本当ですね。なんとかその年度に合格することができました。

 晴れて目標の高経に入学した私。サークルなど大学生活自体もすごく楽しかったのですが、思い返すといちばん印象に残っているのは就活です。広告代理店に憧れたものの、高経から広告に進む人は稀。いろんな勉強会やイベントに参加したり、人に会ったり、勉強をしたり、広告業界に潜り込むために私なりに努力をしました。しかし結果は、箸にも棒にも引っ掛からず。唯一、広告業界以外で受けて内定をもらえた地元の銀行に入ることに。
 
 大変なこともありましたが、銀行員生活は思っていた以上に楽しかったです。営業として仕事をとれたときの、喜びの瞬間最大風速はものすごく、今でも思い出せるくらいに。社員寮の近くで、大声でウルフルズの『バンザイ』を歌いながら自転車に乗っているところを上司に見られ、次の日「おまえク◯リやってるだろ?」と詰められたのも、懐かしい思い出です。
 しかし、入行して3年目のある日、また私の悪い癖が出てきます。かつて目指した広告業界に、どうしてもどうしても、チャレンジしたくなったのです。そして、どうせ銀行を辞めてまで目指すなら、ぜったいに憧れのコピーライターとして働いてやる。そう決意しました。
 それから都内のコピーライター講座に通ったり、平日は仕事帰りにファミレスでコピーの勉強をしたり。それがまた、すごく楽しかったんです。高経を目指して毎日図書館にこもった、受験勉強のときのように。

 そして今、就活のときには落ちた広告代理店で、コピーライターとして働いています。きっと、はた目からは私の人生は遠回りに見えるでしょう。ですが、私は元来どーしようもなく飽きっぽい人間です。きっと、まっすぐ大学に入って広告業界に進んでいたら、今の仕事もぜったいに続いていない。専門学校と銀行を経験したからこそ、高経のことも、コピーライターの仕事も、胸を張って大好きだと言えるのだと思います。

 今になって思えば、遠回りは私にとっての近道でした。
(アパレルから広告にいった前走者の森川くんも、近いことを感じている気がします。たぶん)

 次のバトンは、大学の同級生であり、所属していた総合格闘技部の部長である山中翔太くんに回します。これまで人生で出会った中で、いちばん私を笑わせてくれた人間かもしれません。
翔ちゃん、頼んます!
(東京都目黒区在住)

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