リレー随想

2021/01/13
No.210 2021年2月号 1987年卒 高野 憲一
【大学で得たもの】

 応援団で4年間苦楽を共にした川井さんからバトンを受けました名古屋市在住、1987年卒の高野憲一です。

 初めに、コロナ禍の影響を受けられた皆様には心からお見舞い申し上げます。
 私も大幅な減収や働き方改革でそれなりのダメージを受けましたが、くじけず前を向いて頑張りたいと思います。

 さて、私は1964年の東京オリンピック開催中に文京区で生まれ、10歳から埼玉の川越で、そして18歳から4年間を高崎でお世話になりました。就職後は中部地方を中心に転勤を繰り返し、直近は4年間東京にいましたが、7月に家族が住む名古屋へ異動をして、現在は久しぶりの同居生活を楽しんでいます。

 この度、リレー随想の話を頂き人生を振り返るにあたり、大学時代がいかに人生の宝箱であったかを当たり前ながら実感している次第です。少し長くなりますが、私の回顧録にお付き合い願います。

 私が大学時代に得た特筆すべき事は以下の3つです。

◆一つ目は、やはり応援団活動によるものです。
 応援団は【人を応援するに足る自己の陶冶】をキャッチコピーに、他人を応援できるレベルまで自己を成長させることを目的として活動しており、日々の活動や大学の行事に様々な形で参加し、幾度となく挫折しそうな経験をしながらもその経験が私の行動レベルを大きく伸ばしてくれました。入団時から社会に出てから必ず役に立つといわれ続けましたが、間違いなく私のその後の人生に大きく貢献してくれています。

 3年生の12月に川井さんとたった2人の応援団となり、4月に新入団員がなければ途絶えてしまう(川井さんが留年すればもう1年大丈夫か?)とかなりビビりましたが、多くの新入団員が入り安堵しました。そして、彼らが4年生の時に全日本学生応援団連盟の本部校として大学応援団の頂点に立ってくれたことは今でも誇りです。
人類が他の動物を圧倒的に凌駕することは知識や技術の伝達・伝承の能力ですが、現在の高経大応援団にそれができないことは誠に残念に思っています。

◆二つ目は、大学の勉強です。
 3年生になり、長谷川ゼミ(日本経済論)に入った後に初めて【自分が学びたいものをとことん追求する大学ならではの勉強の面白さ】に気づいて状況が一変しました。
長谷川ゼミではゼミ生が【財政】【貿易】【金融】の各班に分かれ、それぞれ自学習や班ごとの勉強会をして切磋琢磨したのがとても刺激的で、【関ブロ】【インター】と他大学との交流会でも知識や理論を競い合ったものでした。残念ながら私がゼミ生の中で一番の落ちこぼれだったことは言うまでもありません。

 3年生の夏休みにホームステイをして、アメリカ人の懐の広さと経済格差を直に肌で感じた時、【原理】【原則】の座学よりも【現地】【現物】【現実】が優先する実態経済にとてつもなく惹かれ、自分が勉強すべきことがわかったのは大収穫で、自分が学びたいと思った勉強をできることはとてもうれしいものでした。
 就職活動をした1986年の夏は円高不況で、金融班だった私はメーカーの面接でことごとく予想レートを尋ねられ、理論的な購買力平価だけでなく自分の肌で感じた【かなり円高のレート】を回答して嫌な顔をされたことを覚えています。その頃の勉強は仕事よりも株式投資に今でも活かされている。。。かなぁ?

◆そして最も重要な三つ目は、かけがえのない人たちとの出会いです。
 同じ高校から入学して今も大切な友人である宗像さんしか知らないところからのスタートでしたが、卒業までに本当に多くの知己を得ました。

 応援団では川井さんの他、魅力的な先輩・後輩、他大学にも生涯の友を得ました。
 都留文戦やフレッシュマンキャンプ、リーダーズマンキャンプ等を通じて知り合った体育会の仲間たち。特に4年生になり行き場を失った?体育会本部の数名は応援団本部によく来ていたよね?
 新入生歓迎会や大学祭を通じて親しくなったイベント系の仲間たち。本当に勉強でお世話になった長谷川ゼミの皆さん。那須さんの部屋では徹夜でシミュレーションゲームをしたよね(あ、これは勉強じゃないかぁ!)
 そこ抜けに明るい坂本先生とまじめな福井先生のスペイン語クラスの皆さん。毎日のように部屋に居座らせて頂いた塩野さん。横浜といっても中華街出身にしか思えなかった橋本さん、生駒さん、久宗さん。久宗さんにはミスター〇ーナツのバイト帰りに山盛りの残り物を届けてもらいました(時効だよね?)。その久宗さんが大学の先生とはねぇ!卒業旅行でアメリカ西海岸を一緒に旅した松浦さん等々、もう次から次と顔が浮かんできます!
 詳しくは書けませんが、ちょっとほろ苦く素敵な恋もしました。
定期的に会える人もいれば、二度と会うことができない人もいるでしょうが、みんな私のかけがえのない大切な人たちです。

 高崎経済大学に入って本当に良かったと深く感謝しています。大学の4年間で得たたくさんの宝物は今でも私の中に熱く生きています。コロナ禍が収束し、あと数年で定年を迎えたら、旧交を温めに全国行脚しようかな♪

 さて、次のランナーですが、多士済々の1987年卒のリレーを続けたい気もしますが、『また尻拭いかよ』って思われかもしれないけれど、34年前に私たちからバトンを受けて、全日本学生応援団連盟の本部校になるまでごぼう抜きをした立役者の一人、1990年卒の【足立判太朗さん】にバトンを渡したいと思いますのでよろしくお願いします。
(名古屋市在住)
2020/12/13
No.209 2021年1月号 1987年卒 川井 朋章
「大学時代の思い出すこと」

旧姓加藤岡さんからバトンを受けました1987年卒業、群馬県高崎市在住、応援団に所属していた川井朋章と申します。加藤岡さんとは語学のクラスが同じで、また体育会本部と応援団ということで今回指名を受けました。

私は学業優秀な加藤岡さんと違い、学業は不振でした。1年次の田村先生の英語、2年次の三瓶先生のドイツ語、そして1年次の高橋先生の体育を4年生まで履修していました。ほぼ毎日、大学へは行っていましたが、行くのは応援団室までで授業にはほとんど出ていませんでした。4年になり、就職も決まって、これらの必修単位を取らなくては卒業できないという危機感から、私は4年の時が1番授業に出ていたと思います。応援団の4年生が1年生と一緒に体育の授業を受けることはちょっと恥ずかしい気もありましたが、楽しくサッカーをしたこと等を覚えています。
また、語学では同じ試験を受ける応援団後輩の下宿で、試験前日の勉強を徹夜でやったことを思い出します。1年生の後輩達は、授業のノート写しと何処が試験に出るのかとの情報を入手して、私の単位履修に全面協力してくれました。(先輩が留年して、応援団にもう1年残られてはたまらないとの考えがあったからでしょう。)こんな私でも大学時代に1番勉強したのが楠ゼミでの卒論作成でした。前橋の県立図書館に何度も通い作成に苦労したことを思い出します。当時の応援団の先輩方が、代々入っていた玉木ゼミ(卒論がない)を、どうして選ばなかったのか後悔したものでした。

ラグビー部小林敏の随想にあった恋文横丁にも行きましたが、応援団は柳川町のシャリバリという店に諸先輩方を含め代々飲みに行っていました。ママは(年齢不詳:当時40代くらいかな?)自分の息子のように我々を可愛がってくれました。(特に飲み代を安くしてくれた!)卒業後もたまに飲みに行きましたが、学生時代に安くしてくれた分まで請求されています。卒業後20年、30年たってママも相当の年齢のはず!もママは当時と変わらない程の美魔女です。(店が薄暗いせいもあるが!?)飲み屋の栄枯盛衰は常で恋文横丁は疾うにありませんが、パスタの町を標榜する高崎はシャンゴ、ボンジョルノ、シャクナゲ等懐かしいお店は今もあります。高崎にお越しの際はぜひ寄ってみて下さい。
応援団では慈光通りで毎年末募金活動をしていましたが、多くの方々が募金に協力してくれました。「応援団は募金で集まったお金で飲んでいるんじゃないか?」なんてからかわれたこともありましたが、募金はちゃんと高崎市の社会福祉協議会へ持参しています。

人格が未成熟であり、人生において最も吸収力と感受性の高い時期である学生時代の経験は、私にとって非常に新鮮であり、私の人格形成に大きな影響を与えたものとなりました。
昨年、高経大応援団も加盟する全日本学生応援団連盟の同期会が新潟は越後湯沢で行われ、卒業後33年振りに連盟加盟校OB十数名が集まりました。北は北海道帯広(専修大)、南は九州宮崎(上智大)から参加した者もあり、学生時代の情熱が未だ冷めやらぬ者がいることを実感した次第です。そして、またの再会を誓い合いましたが、コロナ禍の中、今年は中止になったことが非常に残念です。

最後にこのリレー随想にあたり、母校と応援団に対する自分の気持ちを再確認することができました。加藤岡さんに感謝致します。
そして次のリレー随想は、応援団の同期であり、苦しきことも楽しきことも供にした、高野憲一を指名します。
(高崎市在住)

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