大江戸雑記


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大江戸アラカルト(3)
2015/01/20

江戸アラカルト(3)

・上がり口
 現在なら玄関というところだが、この時代の玄関といえば乗り物つまり
 高級な駕籠を横づけできる式台のついた広い出入り口のことで、
 上級の武家や名主の家、それに本陣つまり大名が泊まる宿などにしか
 ない。民間に玄関がついているのは一流の医師の家ぐらいで、一般庶民
 の家なら上がり口だ。

 
・親父橋の大和田・・うなぎ

・大晦日
 商家の人々は、夜半まで働きづめに働いて集金と記帳を終えてから
 湯屋(銭湯)に行き、眠るのは、夜明け近くになってからだ。
 したがって、江戸の湯屋は、大晦日だけは元日の明け方まで営業を
 続け、湯を落として掃除をするのは朝になってからだ。
 商人も湯屋も元日はつかれきっているから、そのまま寝正月をきめこむ
 のが普通で、元日から年始廻りに出るのは武家の風習だった。

・凧
 特に正月の間は、子供の凧揚げで大名行列を妨害しても咎めない、と
 いうのどかな定めがあったから、町の真ん中でも凧揚げは盛んだった。

・お目出たい「回文」
 「なかきよのとをのねぶりのみなめさめなみのりぶねのをとのよきかな」

・文政小判
 重さ13g 金の重量比率56%
 18Cのはじめの文政年間では、一ヶ月に銀140匁、金に換算して二両も
 あれば、そう悪くはない生活ができた。

・待乳山(まっちやま)
 浅草寺の手前に小高い丘があって、その上の木立の中にある聖天宮。
 男天と女天が抱き合う形の密教の神像が本尊なので、男女関係の福徳を
 授ける神として信心する人も多いのだ。最近では、ビルの谷間に
 隠れてほとんど目立たなくなってしまったが、この時代は隅田川畔の
 名所であり、見晴らしの良い景勝地でもあった。

・木場
 裕福な商人たちの隠居所や寮(別荘)。 木場は材木の集積地であると
 同時に別荘地。 木場地域だけで大小150もの橋。 水郷ぶり。
 対岸の日本橋地区から隅田川を隔てて二キロ、徒歩30分。
 今の深川には、牡丹という町名があるが、江戸時代には牡丹の名所としても
 有名。 永大寺でかなり大規模な栽培、花の季節に一般公開したのが評判に
 なり。

・深川
 たいして広くない深川地区だけで花街が七ヶ所、貸座敷の料理茶屋が
 百軒ほどあったという。

・天明の大飢饉(1782〜1783頃)
 空前絶後の大飢饉といわれ、人口三千万のうち餓死者は50万人。

・手習師匠
 6歳から12歳ぐらいまでの期間、手習師匠に通って読み書きや
 簡単な計算を習うのが普通だった。手習師匠とは寺子屋のことだが、
 武士の町である江戸では、学校の呼び名に商店のような<屋>を
 避けて、手習師匠と呼ぶのが普通だった。

・武家の奥勤め
 江戸では、子供の就学率がきわめて高く、女子教育も盛んだった。
 良いところに嫁にやるためは、読み書きばかりか、踊りや唄、三味線
 などを厳しく仕込み、さらには教育の仕上げとして武家の家庭に
 女中として入り、礼儀作法まで身につける場合も多かった。これを
 武家の奥勤めというが、労働ではなく教育だから、給料を貰うのでは
 なく、親の方からお屋敷につけ届けをした、つまり月謝を払ったので
 ある。

・出会茶屋
 ラブホテル。江戸中どこにでもあったが、中でも上野の不忍池の中の島
 は出会茶屋の本場で、島の周囲には料理屋の看板をかけた数寄屋造りの
 茶屋が軒を並べていた。 当時は江戸の市街地の北端に近く、これより
 北には、寺院と点在する大名の下屋敷。 人目を忍ぶ閑静な場所。
 どちらかといえば女性のための施設。昔から、男のための遊興施設は
 方々にあるが、女性用のはほとんどなかったから、御殿女中や未亡人
 のような立場の女性が恋人とデートするには、名目は料理屋つまり
 レストランとして営業しているこつ専門店を使うのがもっとも安全だった。

・花火
 川開きの花火の打ち上げは、日本橋横山町の鍵屋弥兵衛と、両国広小路
 の玉屋市朗兵衛の請負で、鍵屋が橋の下流側、玉屋が上流側と決まっていた。
 打ち上げ費用 八割を船宿 二割を料理屋が分担

・広小路
 両国橋の西岸は、両国広小路という当時の最大の盛り場だった、ここは
 日本橋地区の一部で、川に沿った開放的な空間だった。

・大名
 270家前後ある大名家のうち、十万石以上は四十六家で五家に一家もなく、
 十五万石以上となればわずか二十九家。

・江戸の総人口 
 3千万〜3千100万
 敗戦時の人口 引揚者を含めて7,220万 半世紀後1億2692万 2000年10月

・浅草寺
 浅草寺の本堂は、安政の震災でも関東大震災でも類焼を免れたが、
 太平洋戦争末期の昭和20年3月10日の下町大空襲では、仁王門を残して全焼した。

・士農工商
 士農工商という言葉はあっても制度はなかった。 ×社会制度
 士農工商とは、古代中国の言葉で、本来の「士」は「士大夫」つまり
 知識階級の意味である。それを日本の武士、農民、職人、商人にあてはめて
 それがあたかも身分だったように思い込む、あるいは思い込まされているが、
 もっとも厳しい身分区別があったのは軍人である武士階級の中で、農工商の間
 には上下関係がない。

・江戸前
 江戸では江戸前の鰻が主流だった。今では寿司専用になってしまった
 江戸前の言葉は、もともとは、うなぎの産地を表示するための用語
 だったのである。

・自由だった江戸庶民
 近代海軍を建設するために来日し、二年余り滞在したオランダの海軍士官
 カッティンディーケ。彼は「すべての要人は武士で占めている。地位が
 高ければ高いほど、彼らは人目に触れずに閉じこもってしまい、ただ式服
 を着け、その身分を表象する印を帯同してのみ、外出するのである」
 と書いた。また、「これに反して、町人は個人的自由を享有している。
 しかもその自由たるや、ヨーロッパの国々でも余りその比を見ないほどの
 自由である」(長崎海軍伝習所の日々 水田信利訳 東洋文庫)
 イギリスの初代駐日大使オールコックも同じ感想を抱いて、日本の世襲貴族
 つまり武士階級と一般大衆の間には越えがたい隔たりがあり、そのため
 一般大衆には「われわれが想像する以上の真の自由があるのかもしれない」
 と感想を書き残した。(「大君の都」山口光○訳 岩波文庫)

・困窮する武士
 米で俸禄を受けている武士階級はまったくの受身で、役職について
 役手当てを受けない限り所得の増やしようがなかった。そればかりではなく、
 さらに不利な条件がかさなった。

・芸者 
 柳橋芸者が盛んになったのはずっと後の安政年間つまり1855年ころから。
 この当時はまだ芸者が少なく、14,5人。 江戸の文化革命ともいうべき
 天保の改革の時に、総勢250人以上いた芸者が深川(七場所取り払われ)から
 柳橋へ。

・幕臣
 幕臣は、毎年3回に分けて禄米を支給されたが、大量の米を貰っても置き場
 がないため、その時々の時価に換算した現金で受け取るのが普通だった。
 ただでさえ米価が安定していないのに、録米を受け取る時期には市場に大量の
 米が出回って相場が下がるという悪循環もあって、幕臣の貧しさは
 構造的といっていいほどになっていたのだ。
 なぜそんな不合理なことをし続けたのか不思議に思うが、一度出来上がって
 しまった制度がおいそれと合理化できないのは世の常。
 今の官僚制度がもっとも合理的だと思っているのは、その不合理さで
 利益を得ている人だけである。

・昌平坂学問所
 五代将軍徳川綱吉が孔子廟の湯島大聖殿を建て、付属の学校に
 孔子の生地である昌平郷にちなんだ昌平?(旧字)と名づけたときに
 昌平橋(←相生橋)と改名。
 大聖殿に向かって右にある卯高門は現存するが、その門を入ったところ
 にある講堂では、卯高門日講という授業が毎日行われていて、商人でも
 農民でも職人でも袴さえ着けていれば無料で自由に聴講できた。ただし、
 聴講に来るのは武士ばかりで、町人の聴講者はほとんどいなかったそうだ。
 武家社会ではこんなふうに、儒教を国教さながらに扱って孔子様に傾倒
 していたが、一般庶民はそれほど熱心ではなかった。
 昌平?は、寛政2年(1790)以後は幕府官立の最高学府となり、名称も
 昌平坂学問所と改められた。

・お茶の水
 という地名は、もともとこの辺りにあった高林寺の名水の井戸に
 由来。寺は万治の大工事の時に移転。井戸は残っていて柳営御用つまり
 将軍家茶用の御用水として使っていたため、上に御の字をつけて
 御茶の水と呼んだ。 残念なことに、さらに70年ほど後の享保14年
(1729)の大洪水で水没してから井戸として使えなくなり、今では、
 地名として残るだけになった。

(画像は七代目市川団十郎)

大江戸アラカルト(2)
2015/01/15

江戸アラカルト(2)

・小判の価値
 全く隔たった二つの時代の貨幣価値は、非常に比べにくいものである。
*金量  文政一両小判 純金7g強 ×@2千円=1万4千円
*米の値 10kgを5千円とすれば、一石(150kg)は7万5千円
  になり、一石を一両二分とするなら、一両は5万円になる。
*賃金 こういう場合に必ず引用される「文政年間漫録」によると
  大工の収入が一日五匁四分で、年間実働を294日とし、一貫五百八十七
  匁六分の手取りということになっている。これは中級の大工で銀で賃金
  を受けている例だが、当時の相場で六十四匁を金一両とすれば二十五両弱
  に相当する。つまり、月収が二両そこそこということになる。
  現在の大工の手間を、一日二万円とし、江戸時代と同様に294日働いたと
  すれば、588万円になる。月収にして49万円。一両は二十三、四万円
  の見当になる。

・永代寺門前仲町
 現在でも、門前仲町は東京の中で得々の雰囲気を帯びた繁華街dあって、
 深川の中心地として栄えているが、この時代は、仲町を中心に深川七場所
 という遊興地があって、新吉原に次ぐ大歓楽街として有名だった。
 しかも、この時代の深川は、隅田川を隔てた日本橋川の江戸とは、かなり
 文化的背景も、住民の気性も異なっていて、江戸の中でも特別な地域だった。
 現在では、本所や深川が江戸っ子の本場のような表現をする人がいるが、
 このあたりは18世紀初期までは江戸でなく、下総になっていた。
 両国橋の名は、武蔵国と下総国の両国を結ぶという意味で命名。
 一応、町奉行の支配になったのが、八大将軍吉宗治世の享保4年(1719)
 だが、その後三十年ぐらいは、犯罪者が江戸払い、つまり江戸からの
 追放刑になっても、本所や深川にいることは差し支えなかったといわれて
 いる。

・粋は深川、いなせは神田。 現在でも、冨岡八幡の祭礼は、江戸の
 三大祭の中に数えないという考えが深川に残っている。一つの見識。

・深川
 背後に景気の良い新開地を控えた港町、というのが深川独特の気風を育てた
 土壌。当然、伝統的な商業地である対岸の江戸川と違って、気性が激しく、
 お上品ぶらず、全体に威勢の良い、いわゆる辰巳風の風俗が生まれた。
 辰巳とは南東。 深川は日本橋の南東。
 吉原(女郎) 深川(芸者)

・人形町
 二丁目界隈に人形操りの小屋があり、その人形師が、人形製造と販売を
 していたところから、人形丁と俗称されるようになり、その名の美しさ
 から、広く用いられるようになった。
 芝居小屋が集まっているから、この近所には観客相手の芝居小屋、船宿
 などが多く、また役者の住居も一帯に集中していた。陰間が多かったのも
 芝居小屋があったことに関係が深いという。
 歌舞伎の名作、「世話情浮名横櫛よわなさけうきなのよこぐし」という
 より、お富と切られ与三郎で有名な玄治店(げんやだな)の跡も、現在
 の人形町交差点から少し堀留寄りの右側に、一本の路地として残っている。
 玄治店といっても、特定の家のことではなく、もともとは、岡本玄治という
 医師が幕府から下賜された土地だから、ごく小さな町と考えて良い。昔は
 高級な出会い茶屋が多かったという。
 玄治店から、人形町通りを隔てた旧芳町から堀留寄りにかけたは、この
 時代の歌舞伎の中心地であった。幕末の天保改革で、浅草猿若町へ
 移転させられるまでは、正式な芝居興業の特許を受けている江戸三座の 
 うち、中村座、市村座、この葺屋町と堺町の通称二丁町にあった。
 日本文化の典型にようになっている江戸歌舞伎の中心は、絶えず、火災や
 幕府の弾圧によって苦しめられながらも、江戸時代の大部分を通じて
 現在の人形町三丁目辺で生き延びていたのだ。
 日本中探しても、狭い範囲にこれだけ色っぽいものばかり集まった土地は
 珍しいのではないかと思う。なお、有名な水天宮は、現在ではこの界隈と
 切っても切れないが、これは、もともと有馬邸内にあった神社で、明治5年
 (1873)に有馬邸の移転とともに現在地へ移ったもので、洋介のいる
 文政5年におは、まだ、この地とは関係がなく、芝の赤羽橋にあった。

・銀座(幕府の銀貨鋳造所)
 静岡駿河銀座→(慶長17年1612)新両替町(現在の銀座)→(享和元年1801)
 不正事件を契機に、蛎殻銀座(現在の人形町1丁目北部辺り)→(明治4年)
 明治政府の造幣局創立にともなって明治5年4月に廃止。

「御維新以後の人間は、他人さまのことを考えるのを損みたいに
 思うようになりやがったから・・・」

・森の都「江戸」
 明治2年(1869)の調査
 江戸市中 武家地 68.6% 寺社地15.6% 町人地15.8%
 人口の半分を占める非武士階級は、大江戸のたった六分の一弱の地
 当時の大名270家 身分相応の庭園 上、中、下屋敷。寺社を含め
 膨大な庭園面積。

・桟敷料(歌舞伎)
 銀30匁(一両の半分くらい) 席:5尺に4尺8寸(約1.5m四方)

・江戸時代の経済の土台
 人口の八割を占める四公六民の割で召し上げる米によってなりったっていた。
 人口の5%程度を占める武家階級がそれによって生活し、行政、司法権
 を握って四民の上に君臨していた。 農民にとってはたまったものでは
 ないし、江戸時代を通じて、全国に大小二千回とも三千回ともいう一揆が
 あったのは驚くことはなし。
 現在でも勤労者7人につき公務員や準公務員が一人の割合。


 
画像@深川 A神田明神 B上水道図

大江戸アラカルト
2015/01/12

江戸アラカルト(1)

学術書とは違い、読み物(小説)はそれ自体が一個の知の塊。
石川英輔の「大江戸シリーズ」は江戸時代・文政年に転時(タイムスリップ)した
現代人の物語だが、社会背景、風俗が非常に分かりやすく
リアルに描いている。下掲のシリーズからランダムに抜粋
引用してみよう。
(シリーズ:大江戸神仙伝・仙境録・遊仙記・仙界紀・仙女暦・
      仙花暦・庶民いろいろ事情・大江戸エコロジー事情)

・魚河岸
 関東大事震災後に築地に移るまで、東京の魚河岸が日本橋の北にあった。

・文政年間当時の
 新宿・渋谷・池袋あたりは、法制上はやっと町奉行支配下に入るか
 入らないかという辺鄙な地域で、実質的には都市というより農村地帯。

・身長
 発掘した骨格の測定によると、男の成人の平均身長は156cm。
 長身の将軍 六代将軍家宣 162cm 
 明治時代の大男の横綱常陸山172cm

・奥さま
 旗本の内室
 大名 奥方さま
 御家人・大店 新造さま

・です(=でげす) 下賎の言葉。

・明け六つ 暮れ六つ 日の出の36分前、日没の36分後

・江戸の範囲
 文政元年(1818)の老中決定「江戸朱印図」
 東から北へかけては荒川が境界で、西は、山手線の西半分の
 少し外側に境界が走っている。(広義の江戸)
 狭義の江戸つまり、町奉行支配区域となるとはるかに狭く、
 東は深川から本所、北東が浅草の橋場、今戸、北が駒込、巣鴨、
 西は千駄ヶ谷、渋谷、白金、高輪といった辺りで、現在の23区
 の面積に比べると2割そこそこ。

・江戸で目につくものとして、
「武士、鰹、大名小路、広小路、武者絵、紫、色紙、錦絵」

・武士
 江戸時代の武士は特権階級には違いなかったが、現在の野放図な官僚
 とは違って、そこには自ずから厳しさがあった。例えば、国家公務員
 に相当する旗本や御家人のような直参すなわち徳川家の家臣は、幕命
 がない限り身分の上下を問わず、外泊できない。必ず、夜の九つ半
 つまりほぼ一時頃までには自宅に戻っていなくてはならなかった。
 これは、一朝事があった時、すぐ登城して将軍家の警護に当たる為で
 ある。諸侯の家臣つまり地方公務員とて、許可なしに外泊はできない。
 要するに、武士は、日帰りで行けるところへしか行けないのだ。

・吉原
 現在の東京都台東区には、吉原という地名はもちろん、江戸町、揚屋町、
 角町、京町など、17c以来の町名は、どこを探してもない。遊廓と
 してあまり有名であった為に、吉原では地名変更に対する抵抗はほとんど
 なく、隣接の千束町の名をもらって昭和41年十月から、千束4丁目と
 なった。今日、吉原の名を正式に留めるのは、もとの日本堤から吉原への
 入り口に相当する場所にある『吉原大門』の交通標識と、吉原神社、
 吉原電話局ぐらいのものであろう。
 明暦大火後の明暦三年(1657) 日本橋の元吉原から移転。

 日本橋から、新吉原の大門口までは、一里強であるが、(駕籠)費用は
 金二朱(約八百文)ぐらいであったという。時間は一時間弱。
 道は決まっていて、吾妻橋のたもとから馬道をまっすぐ行くと、
 吉原通いの一本道、いわゆる土手八丁にぶつかる。ここを左へ曲がれば、
 あとは大門まで一直線。土堤の右側は山谷堀で、ここも吉原通いの
 猪牙船がせわしなく、行き来している。
 この時代の新吉原には、四千人以上、五千人近くの遊女。

・年季奉公 28歳
 この時代の高級遊女ともなると、年間少なくとも五百両、多い方では
 7、800両以上稼がないとやり繰りがつかなかったというから、
 驚くべき金額である。
 700両といえば、二千石ぐらいの旗本の年収で、これを、二十歳ぐらいの
 若い女の身一つで稼ぎ出すのだから、まさに容易なことではあるまい。
 遊女といえば、不誠実の人間の代表のようにいわれているが、客を騙さない
 と生きて行けない組織になっていたのだ。
 下級な遊女の場合は、もっと露骨にみじめだった。吉原の遊びは一種の
 擬似恋愛の形をとっていたから、一夜に客一人が原則で、気に入らぬ客は
 「振る」こともできるたてまえだった。ところが、文化年間あたりには、
 このたてまえも崩れ、<廻し床>と称して、一夜に5人も10人もの
 客をとらせた。また<割り床>と称して、一室を屏風でいくつかに仕切り、
 そこへ女を廻したりもした。もはや、文化もサロンもヘチマもなく、
 性欲の切り売りにほかならない。
 こういう下級遊女は、もちろん健康上の配慮もされず、病気になれば
 放置され、死ねば、専門の投げ込み寺に投げ込んで片付ける。

・水道
 <水道枡> 地下にはりめぐらせた給水管の所々に水を溜めておく
 井戸状の部分。
 神田、日本橋の人口密集地域から大手町辺にかけては、寛永6年(1629)
 頃に完成した神田上水。 井の頭、善福寺池、妙正寺池の湧水と神田川。
 さらに大規模な玉川上水、承応三年(1653)に開通。
 最盛期の江戸の水道、給水管の総延長は150kmに達し、共同井戸である
 水道枡はほぼ3〜40メートル間隔に設けられていた。

・結婚式
 江戸時代以前の日本人の結婚式は宗教とは何の関係もなく、親類だけの
 内輪の行事だった。法律上は届出制で、人別帖に夫婦として登録
 しなければ無効であることは今日と大差ない。 市民婚。
 神前結婚・・元祖日比谷の大神宮・・明治33年に始めた。

 
 
・江戸の中心
 この小さな江戸の中心が日本橋であって、北は神田、南は京橋あたり
 までが下町、いわば都心の中心部で、もともとは城下(しろした)の
 町という意味。
 浅草 1820年代 場末(郊外) 浅草寺の北は田畑が続いていたし、
 18cの末ごろまで、浅草の人が神田、日本橋の方へ出る時は
 「江戸へ行く」という記録が残っているぐらい田舎。
 「擬宝珠(ぎぼし)から擬宝珠まで」
  日本橋と京橋の間の商店街こと、江戸最大の繁華街。
  通りの幅も、日本橋の南つまり通町(とおりまち)は江戸間十間
 (18M)、北側の本町通りは京間七間(約13m強)と差をつけて
  いる。
 十間道路というのは、当時としてはまさに都大路で、総棟高二条四尺
 (7・2m)以上の建物は禁止されていたから、大通りの両側は
 二階建瓦葺造りの重厚な大店が軒を連ねている。
 

ちょっとみちくさ『サザエさん』の年齢は?
2015/01/01

『サザエさん』の年齢は?

昭和35年当時、一般的な企業の定年は55歳で、平均寿命は男性が65歳、
女性でようやく70歳に達したところ。30代は立派な中年。40代は
そろそろ初老、50代になれば少し老け込んだ人なら見た目は老人の範疇に入る。

漫画『サザエさん』の登場人物の年齢設定が当時を反映している。
主人公のサザエさんは27歳で、息子タラちゃんを生んだのは24歳の
ときらしい。夫のマスオさんは32歳、いとこのノリスケさんは26歳、
ノリスケさんの妻・鯛子さんは22歳。お父さんの波平はなんと54歳。
今やとんでもない長生きの時代に入ったようだ。

参考文献「日本人はなぜ若返ったのか?」

ちょっとよりみちー米サイトが選ぶ2014年のすばらしい写真
2014/12/30

「米サイトが選ぶ2014年のすばらしい写真」

http://j.peopledaily.com.cn/n/2014/1229/c204149-8829084.html?urlpage=7


どうぞ、よいお年を!

半畳を入れる
2014/12/28

娯楽から生まれた江戸しぐさ〜半畳を入れる〜

役者が下手な芝居をやると、
お客さんはその半畳を舞台に投げ入れて怒りを表現しました。
このことから非難したり、からかったことを指すようになったようです。

半畳とは座布団のこと

本来、品のない行為とされ、するべきことではないこと!

『向嶋言問姐さん』

ケンペルのみた日本(最終回)
2014/12/21

<都市文化の形成ー江戸>

 3月13日、長崎をたって29日目に、ケンペル一行は江戸に到着した。
江戸は将軍さまのお膝元である。18世紀の半ばに、江戸の人口は100万をこえ、
やがて130万を数えるにいたる。ケンペルが江戸を訪問したのは、それより
すこし前、いわば興隆期にさしかかった時期だったのである。

 『日本誌』--[江戸は]すべての技芸および手工業・商業その他の工業は
 繁栄しているが、非常に多くの安逸をむさぼる役人や神官・僧侶らの存在が、
 この国のどんな地方よりも、すべての物価を一段と高くさせる原因となって
 いる--

 このとき、将軍は、徳川幕府第五代綱吉である。巷間「犬公方」の名で
知られるとおり、世上の評判はかんばしくないが、一面では学問を愛し、
湯島に聖堂をたてるなど、在職中、文化的な方面での業績があった。
ケンペルは、3月29日、その綱吉のもとに参上し、謁見をたまわる。しかし、
彼は終始平伏を命ぜられ、結局、将軍の顔をみることはできなかった。
そればかりか、謁見のあと、将軍から質問攻めにあい、挙句の果てには、
大奥の婦人たちを相手に踊ってみせたり歌ってみせたりといった羽目になる。

 『日本誌』--われわれはある時は立ち上がってあちこち歩かねばならなかったし、
 ある時は互いに挨拶し、それから踊ったり、跳ねたり、酔っ払いの真似をしたり、
 つかえつかえ日本語を話したり、絵を描き、オランダ語やドイツ語を読んだり、
 歌を歌ったり、外套を着たり脱いだり等などで--

 ところで、江戸幕府は、一面で大変集権的な政権で、諸国の大名に対して
一年おきに将軍のもとに参勤することを強制した。参勤をもって将軍への
忠誠の証とみなしたのである。各大名は、一年は国もとで過ごし、次の年には
大勢の家来を引き連れて江戸へ移動し、また次の年には同様にして国に
戻らねばならなかった。参勤交代と呼ばれる制度である。

 『日本誌』--たくさんの地方出身の人や土着の市民や宗教関係の人たちが、
 この町の人口を非常に多くしている。たくさんの幕府の役人や、特に
 全国から来ている諸大名の家族が、なおこれに加わる--

 この頻繁かつ大量の武士の移動を通じて、諸国の文化が江戸にもたらされ、
また江戸の文化が全国各地に持ち帰られることになった。そのかぎりで江戸は、
さまざまな地方文化を吸収し、撹拌し、送り出す役割を演じていたのである。
大名の鎖国--すなわち藩は、おのおの独立した小国家であり、それぞれに
異なったお国ぶりがあったが、それらは、参勤交代を通じて、日本の中心で
ある江戸と緊密につながっていたのである。
 ケンペルの指摘するように、江戸には、幕府の役員も住んでいたのだから、
これに地方武士をくわえて、常時、おびただしい数の武士が集中していた。
もっともその武士たちは、彼らだけで閉鎖的な社会を形成していたのでは
なかった。むしろ、しだいに同じ江戸に住む町人たちとも馴染んでいった。
町人にしても、完全な消費人口である武士なくしては生業がたたない。
武家方向をはじめ武士の邸宅は、彼らのいいかせぎ口であった。四季の遊山や
芝居見物、吉原遊びなど、両者が交流する場はいくらでもあった。
 社会のたてまえからすれば、本来、武士と町人は階級が違い、したがって
武士の文化と町人の文化と異なっているのだが、こうなれば、とちらが
どちらともいえない状況となってしまった。つまり江戸という都市は、地方の
異文化をつけまぜるセンターであったとともに、武士と町人という階層差を
ないまぜにして、あらたな都市文化をうみだす役割をも果たしていたのである。

 4月5日、ケンペルは江戸を離れた。郊外に出ると、田植えの準備をする
農夫の姿が見えたという。


<後記>
 徳川時代の華、元禄の世を見、日本の「鎖国」を高く評価したケンペルだが、
その『鎖国論』を読んだ者は驚くほど多かった。例えば平田篤胤は「古道大意」
(文化八年)の中でそれを引用し、ケンペルの非常にポジティブな評価を強調
した。吉田松陰も嘉永三年十月一日に平戸を訪ね、松浦の図書館で『日本誌』を
見て、それを必読書として「西遊日記」に記している。それに対して、
横井小南は「読鎖国論」の中でケンペルを引用しながら、ケンペルの鎖国論の
評価を全面的に非難し、井上薫との対談でも、日本の経済的な没落は鎖国政策
によるものであると強調している。
 また文中で触れなかったが若い日本人の助手今村現右衛門が、彼の必要とした
情報のみならず、出版物、書物、地図などを熱心に集めてくれたことが、
ケンペルの仕事の成功につながったことは銘記しなくてはなるまい。

 江戸時代、民が搾取され続けた暗黒の260年ではなかったことは
「ケンペルの書」が雄弁に物語っている。

          ー Fine ー
画像
@東海道
A江戸時代の並木
Bケンペルの踊り・御前にて


ケンペルのみた日本(5) 
2014/12/18

<京都にみる経済都市の活況>

 2月28日、ケンペルたちは京にはいった。大阪から京都までは、淀川にそって
陸路を行く。およそ13里、まる一日の行程であった。
 京都には二泊三日の滞在である。ここでは、これまた幕府高官の京都所司代に
挨拶をしなければならなかった。所司代は、幕府の京都および西国支配、なかんずく
朝幕関係の要の地位を占めていた。

--『日本誌』--所司代は広い権限をもち、また名望のある人物で、ここに居をかまえて
  いる。彼は、町奉行や出納係や司令官やその他、西方にある将軍直轄の小都市や
  地方の役人などの総司令官である。すべての西国の大名たちでさえも、彼の監視
  には気を配らねばならない--

 いうまでもなく、京都は平安時代以来の都であり、この都市には、天皇を頂点
として、貴族たちによって構成される朝廷があった。江戸には武士による幕府が
あって、その長として将軍が君臨していた。江戸に幕府があった期間、天皇あるいは
朝廷が現実政治に権力を行使することは、ほとんどなかった。この時代、実質的に
日本を統治したのは将軍であり、そして将軍を中核とする幕府機構であった。
しかし、まったく名目的にもせよ、天皇の地位は将軍より上であった。明治以前
のかなり長い期間、京都と江戸と、日本には首都が二つ存在していたようなもの
である。江戸時代も後半になれば、京都を皇都とよぶのに対して江戸を東都といい、
また経済都市であった大坂を加えて「三都」という言い方さえあった。
 もっとも、ケンペルは旅行記中の京都についての記述で、天皇・朝廷もしくは
御所の存在について、まったくふれていない。むろん、ケンペルは、天皇のことを
知っていた。『日本誌』のなかには、歴代の天皇についての記述もあり、
大英博物館の残されたノートの中では、元禄期の天皇像についても、いくつかの
興味ぶかいことがらを記している。しかし、江戸へむかう彼らにとって現実的な
関係はあくまで幕府のそれであって、天皇の存在感は希薄だったのであろう。
 むしろ、ケンペルの目をひいたのは、京都の町の活況である。京都は、古代・
中世を通じて政治と経済の中心地であった。江戸時代になって、実質的な政権を
にぎった徳川幕府が江戸を根拠地としたために京都はもう政治の中心とはいえなく
なったが、それでも、ケンペルが訪問した元禄時代、まだ京都の経済力は健在で
あった。ケンペルは、そのような京都の様子を的確にとらえている。ケンペルには
大坂より、江戸より、京都の町が活況を呈しているようにみえたのである。

--『日本誌』--京はいわば日本における工芸や手工業や商業の中心である。
 (中略)それゆえ京都の工芸品は全国に名が通っていて、京の製品という名前
 さえ付いていれば、実際に出来栄えが大変悪くても、他の品よりずっと好かれる
 ということである。大通りには商家以外はほとんどなく、こんなにたくさんの
 商品や小売りの品物に買い手が集まって来るかと、われわれは驚くほかはない。
 旅行者は誰もが自分か他の人のために何かを買い込み、それを立ち去っていく--

 この一節は、現代の歴史家が元禄期の京都の繁栄を記述する際、好んで
引用する文章である。


<旅する日本人>

 陸路にもどったケンペルは、京都から東海道を江戸にむかうことになる。
ケンペルは、その沿道の交通・宿泊の施設が完全に整備されており、また治安が
よいので、誰でも安全に旅行できること、そしてそれ故におびただしい旅人が
街道を往来していることに、ひどく感心している。おそらく彼の故国とはかなり
事情が異なっていたからにちがいない。

--『日本誌』--この国の街道には毎日信じられないほどの人間がおり、二、三の
 季節には住民の多いヨーロッパの都市の街路と同じくらいの人が街道に溢れて
 いる。(中略)一つにはこの国の人口が多いこと、また一つには他の諸国民と
 違って、彼らが非常によく旅行することが原因である--

江戸時代に庶民の旅行を促進したものの一つに、神社・寺院への参詣があった。
とくに三重県にある伊勢神宮への集団参詣が注目される。ケンペルも東海道に
入ると早々に伊勢参りの人々に出会うことになる。

--『日本誌』--われわれは、今日非常に多くの男女に出会った。たいていは歩いて
 いたが、馬車に乗っている人も少しはあったし、時には一頭の馬に二、三人も
 乗っているのを見かけ、またいろいろな乞食もいた。これらの人々はみな
 伊勢参りに出かけたり、そこから帰ってくる人々である--

 しかもその伊勢参り、1650年以来、不思議と50〜60年周期で大流行を繰り返し、
その都度、全国各地から旅行者が伊勢をめがけて殺到したのであった。
1705年(宝永二)の流行に際しては約50日間に362万人、1830年(天保元)では
わずか1月の間に238万人の参詣者があったと、当時の関係者が記録している。
この数は、現代においても、決して小さいものではない。しかも、その大部分が
庶民であったから、この間、おびただしい数の庶民が、日本列島を右往左往して
いたになろう。
 これは一次的な狂乱として、ひとまず例外視することもできよう。しかし、
通常の時期で、代表を選んで、町や村から伊勢をはじめとして有名な寺社へ
参詣に送り出す習慣は、江戸時代にすでに確立していた。関西の三三の聖地、
四国の八八の霊場など、各地に巡礼の順序とコースがさだめられ、それに
そって巡礼することも、さかんに行われていた。こうした旅を経験することが、
一種の成人儀礼とみなされた地方も、少なくなかった。
 旅人たちを目的地へ案内する商売は、地方まわりの下級宗教家を中心に、
すでに中世に発生していた。それが、江戸時代になると、旅行業務をあつかう
代理店が生まれ、一部で旅館の系列下もすすんだ。旅人の増加があらたな
旅行業者を生み出し、このような旅のシステムの完備が、いっそう多数の
人々を、不安なく気楽な旅にさそうことになった。

--『日本誌』--徒歩の旅行者や身分の低い人たちは、わずかな銭を払って、
 上等ではないが暖かい軽い食事をとり茶や酒を飲むことができる。こういう
 小さい料理屋や茶店は、苦労して暮らしを立てなければならない貧しい人たちが
 やっているので、これらの店は貧弱で粗末であるが、それでも通り過ぎる旅人を
 いつも惹きつけるに足るものである。家を通しては花の咲いている植物や小高い
 遊園や、さらさら流れ落ちる小川とか、そういったもののある緑の裏庭は快く
 眼に映える--

 街道や航路は、幕府の手で過不足なく整えられていた。もっとも、幕府による
街道の整備は、当初、参勤交代など幕府・大名の公用を意図したもので、必ずしも
一般の旅人の便宜を配慮したものではなかった。海上の航路にしても、当初の
意図が年貢米の輸送にあった以上、幕府と藩の利益が念頭におかれていたのであり、
民間人の旅行を想定していたわけではなかった。しかし、いったん旅行に便利な
施設が充実すれば、誰しもより整備された街道や航路のほうを利用する。幕府の
整備した街道は、たちまち庶民に占領されることになった。海上交通にしても、
事情は同様である。


           − To be continued ー

画像@ お雪の伊勢参り
  A 伊勢街道
  B お伊勢さん

ふとどきしぐさ・わがまましぐさ
2014/12/10

「ふとどきしぐさ・わがまましぐさ」

自己中心はタブーだった生活。
江戸では幕府の犯罪防止政策から「五人組」というグループ単位で相互監視、扶助の仕組みが作られていた。

そんな社会だから、自己中心的に振る舞うことは嫌われた。
身勝手に振る舞う者は「ふとどきしぐさ・わがまましぐさ」と呼ばれ嫌われた。

長屋に住む人たちは、困ったことが起きたら互いに助け合うのは当たり前のことで、
事件が起これば大勢で解決に当たった。江戸の人達は自分一人で生きていると考えず、互いに助け合ってこそ生活できると考えていた。

『向嶋言問姐さん』

ケンペルのみた日本(4) 
2014/12/05

<海路での沿岸の港町>

 2月17日、ケンペル一行は小倉まできた。ここからは、瀬戸内海の
船旅である。瀬戸内海には船舶が活発にいきかい、あたかも西日本に
おける幹線道路のような観を呈していた。
ケンペルはその様子を簡潔に描写している。

--『日本誌』この海上には上下する大名やその家来ばかりではなく、
また大部分は、ある町や国から他国に商売のために出かける国内の
商人も頻繁に往来するので、時には一日で百艘の帆船を数えることが
ある。--

 もっとも、ケンペルは海上をいく旅に少々不満であった。陸路をいけば、
日本人の社会や生活をつぶさに観察することができる。しかし、船旅では
そうはいかない。海上から風景をながめるしかない。彼には、この行程の
設定は外国人を隔離しょうとする幕府の方針のようにおもえた。
しかし、おそらくそれはケンペルのおもいすごしであっただろう。むろん、
幕府にそのような配慮がまったくなかったとはいいきれないが、日本人に
とっても、西国道を旅するには、瀬戸内海を船でいくのが、もっとも
快適な方法であったからである。
交通の発達と人々の頻繁な移動は、江戸時代以前から、日本社会のおおきな
特徴の一つでなっていたが、江戸幕府の成立によって、人々の移動はいっそう
整理されることになる。陸上の交通網の整備もさりながら、海上交通の充実が
注目される。ふるくから日本では、大量の物をあつかったり、遠距離を移動
するには船を利用するのが普通であった。なぜか、馬車や荷車など、陸上の
大型運搬具の発達は緩慢であった。陸路は、徒歩か、馬にのるか、いずれにせよ
大量輸送や遠距離移動には困難がともなった。海にかこまれた日本のことで
ある。海上に船をうかべるにこしたことはなかった。

 この時代は鎖国政策のもとにあったから、もとより遠洋航海は発展の
しようがない。したがって、江戸時代に発達したのは沿岸の航路である。
ケンペルの船も、海岸線にそってすすみ、日がくれれば、家室・御手洗・
白石・室津・兵庫といった港に停泊しながら、航行をつづけた。

--『日本誌』われわれの海上旅行の針路は大きな日本島(本州のこと)の
海岸に沿ってとられ、左手に日本島を視野におさめ、暴風が来る時には
港のひとつに避難することができるように、一、二里以上陸地を離れること
はない。--

 内海・外海をとわず、日本列島の海岸線には港町が連なり、沿岸の航海に
各種の便宜をあたえていた。江戸時代の都市は、なんらのかたちで港町で
あった。たとえ内陸よりに位置した都市でも、それが都市である以上、
かならずといってよいほど、大きな河川でつながっていた。便宜をともわない
地域は、全国的な物と人のながれからとりのこされてします運命にあった。
 これらの海上交通は、人の移動はもとより、船便による物資の大量輸送に、
いっそう貢献するところがあった。江戸時代、各藩は年貢として徴収した
米や特産物を現金化する必要があった。そのためには、大量の米や物資を
領国からはるばる中央市場に移送せねばならない。このような需要を前提に、
17世紀から18世紀初頭にかけて、江戸と東北(東まわり航路)、大坂と東北
(西まわり航路)、そして江戸と大坂といった中央市場を起点とする輸送航路
の発達が、民間の商人の手で促進されるところとなった。その主力となったのは、
都市の問屋商人である。有力な問屋商人たちは同業組合をつくり、幕府の
承認のもとに航路を独占し、巨額の利益をえた。彼らのなかには、いくつかの
航路を開設したことで、歴史に名をのこしたものもいた。

<水の都と天下の台所、大坂>

 二月二三日の午後、ケンペルたちは、大坂についた。大坂は、水の都であった。
ケンペルの大阪到着も、水路に導かれる。

--『日本誌』1000以上の舟の間を縫って大阪の町へ向かった。川の両側にある高い
立派で頑丈な番所が大坂と郭外の町をわけ隔てていた。下船を許される前に、
我々は六つの立派な木の橋の下を通り抜けた。それから、我々は、石を積み上げた
高い岸へ上り、町の横町に入り、その町筋を通って、われわれの定宿に着いた。−−

 ケンペル一行は、この大坂に五泊した。幕府の高官である大坂城代にあいさつ
するのも、彼らの旅の目的にふくまれていた。
 江戸時代の日本を代表する大都市は、江戸・京都・大坂の三つであった。
当時、人々は、これら三都市を「三都」と呼んだ。日本には、都が三つもあった
ようないいぶりである。それほど、この三都市が他を圧していたのであった。
人口でいえば、大坂・京都はともに40万から50万程度の規模であった。
江戸はやがて100万都市になるが、このころはまだそこまでには達していない。
いずれも幕府が直轄地とし、役人を派遣して、その行政にあたっていた。
 このうち、江戸が幕府の所在地として政治の中心であり、京都は朝廷が存続
して伝統的な文化都市であったのに対して、大坂は経済活動によって特色づけ
られる都市であって、「天下の台所」という異名さえあった。その立地する
場所が、水陸の交通にきわめて便利で、経済的に全国市場の中心を占めていた
からである。
 俗に「大江戸八百八町」「大坂八百八橋」という。江戸は都市の規模の大きさが
印象的であり、京都はお寺のおおきさが特徴で、大坂は橋の数だというわけである。
大坂を象徴するおびただしい橋の多くは、大坂の町に縦横にめぐらされていた
運河にかかるものであった。17世紀を通じて、幕府は、大坂の市街地整備を
推進したが、その努力の大半が、京町堀、土佐堀などの開堀、淀川、大和川の
改修など、事実上、大坂に流入する河川を利用して運河網を整えることに
費やされたのである。
 これらの掘割や運河を通って入ってくる商品は、小舟で楽々と町に運ばれて
陸揚げされ、商人のもとに届けられる。この町の運河は町筋の方向に沿って
作られていて、それゆえにまた規則正しくほどよい幅があり、そこここに
100以上の立派な橋が架かっていた。
 各藩は大阪の運河に面して蔵屋敷を設置していた。年貢として領内から徴収
した米や特産品をこの蔵屋敷にあつめ、相場をみて売りさばき、現金化したので
ある。17世紀末には100、最盛期の18世紀には200をこす蔵屋敷が、
その運河に沿うように立ち並んでいた。
 大量輸送に船がもっとも有効であった当時の事情からすると、運河は海上から
市街地に船をみちびきこむ役割をはたした。大坂にみられた運河網の発達は
ケンペルの観察どおり、おびただしい物資の大阪への流入を物語っていたので
ある。江戸時代における大坂の経済発展は、こうした物資の大阪への集中に
よってもたらされたのである。

--『日本誌』大坂の町は非常に人口が多く、いざという時に防備に役に立つ
八万の男子がいる。町はその有利な土地柄のために、水陸両路を利用して
最大の商業が営まれ、それゆえ裕福な市民や、あらゆる種類の工芸家や
製造業者が住んでいる。住民が大変多いにかかわらず、この土地は非常に
物価が安く生活しやすいと同時に、贅沢をしたり、官能的な娯楽をするのに
必要なものは何でもある。それゆえ日本人は、
大坂をあらゆる歓楽に事欠かない都市だという。--

           − To be continued ー

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