大江戸雑記


・月数回更新しています。
Page: | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 13 | 14 | 15 | 16 | 17 |
看板娘
2015/06/12

看板娘 現代の【イメージガール】

 江戸中に響き渡るほどの看板娘となったのが、笠森お仙です。彼女のいる「鍵屋」
という茶店は、江戸かあ見るとやや郊外、谷中の笠森稲荷にあるのですが、
それでも彼女を見たいがために、わざわざ足繁く通う客が絶えません。女の子も
多数押し寄せて、彼女のファッションセンスを盗んでいきます。それまでも
町の評判娘いうのはいましたが、江戸中に名が知れ渡ったのは笠森お仙が
初めてです。
 お仙は、父親の手伝いをしながら、12,3才からずっと働いていました。
数え年18歳の時に当代一の美人画の絵師・鈴木晴信に一目惚れされ、錦絵に
描かれます。十数通りの錦絵が江戸中の評判となり、大ブレイク。お仙見たさに
日参を重ねる人や、お茶を何杯も飲み過ぎてお腹を壊してしまう人も出ました。
もちろん見るだけで、手を触れることなどできません。

 それから看板娘を置く茶屋が増えて、お茶お代金がグンと上がりました。
それ以前は一杯一銭だったのが、看板娘が登場して最盛期には50文〜1朱に
まで跳ね上がります。浅草の「二十軒」という茶屋では、きれいな娘を何人も
揃えましたが「一笑み百文かかる」といわれました。店の売上が格段に違って
しまうので、どのお店でもスタイリッシュな少女を探して、熱心にスカウト
します。
 素人娘を対象にした「娘評判記」という番付が季節ごとに出版されるように
なります。そのくらい、町娘の初々しさに脚光が当たったのです。お仙には
「大極上上??」という最高級の評価がつけられています。
 茶屋娘のファッションも変化します。「前垂れ」は、それまで着物を
汚さないためのものでした。これが一挙に高級化します。夏は縮や麻。
冬は羽二重や縮緬。紺に白の縫い取りをしたり、裏をつけたりと、とどまる
ところを知りません。前垂れのほうが着物より価格が張っているということも
ありました。自分で買うのでなく、ご贔屓が買ってくれます。前垂れ一つで
その少女の魅力をどのように表現するか、個性を打ち出すがということに
皆が注目しました。

 看板娘は13〜18歳までがピークで、20歳で引退します。あまりに
看板娘が江戸中の市民の心を惑わせたので、幕府から禁令が出ました。
「茶屋に出す娘は13歳以下の子どもか、40歳以上の年増に限る」となり、
年頃の娘は出してはいけないことになりました。

出典「お江戸でござる」杉浦日向子


晴信の「笠森お仙」

ちょっと道草「地球の美しさを大空から観賞」
2015/06/02

地球の美しさを大空から観賞

http://j.peopledaily.com.cn/n/2015/0531/c94659-8900104.html?urlpage=1

聞き耳しぐさ
2015/05/30

相手を思いやる江戸しぐさ 

「聞き耳しぐさ」(ききみみしぐさ)

聞こえても聞かぬ心がけ!

江戸に住む多くの人は長屋に住んでいた。
長屋の作りは、貧弱で薄い板と簡単な壁に仕切られていた。

隣家の声は当たり前の様に聞こえた。そこで生まれたのが「聞き耳しぐさ」。
聞き耳をお立ててこっそり話を聞いてはいけない。
偶然耳にしたことは聞こえないものとして処理したのである。

プライバシーに立ち入らない基本的な態度である!

『向嶋言問姐さん』

ミシン 篤姫も使った?
2015/05/21

ミシン 篤姫も使った?

 ミシンは英国の家具製造業者トーマス・セントが初めて考案し、
1790年に特許を取りました。1850年ごろまで独仏英で発明、改良が
続き、実用化されました。当時は手動だった。
 日本縫製機械工業会によると日本に入ったのは54年に2度目の
来航した米国のペリー提督が、将軍徳川家定に贈ったのが初。
正室の天璋院篤姫が使ったとされています。名称は、ソーイング・
マシン(裁縫の機械)という英語がミシンと聞こえたか、誰かが
そう呼んで定着したようです。蛇の目ミシン工業によると
同社の前身のパイン裁縫機械製作が1929年、国産初の家庭用ミシン
販売を開始。足踏み式で、価格は当時の大卒初任給の約3倍も
しました。
 戦争直後はまだ高価。50年のお年玉付き年賀はがきの特等商品に
選ばれました。しかし、生産が急増して69年に最高になると、
70年代にかけて8割以上の家庭に普及しました。その後は、
作らずとも衣類が手軽に安く買える時代が来て、生産は減り続けて
今に至る。
(読売・2015.5.12)

ちょっとよりみち(高崎発上野行)
2015/05/15

高崎発上野行(1960年)
https://www.youtube.com/watch?v=q46dgvSsUhM

女しぐさ・男しぐさ
2015/05/05

相手を思いやる江戸しぐさ 
「女しぐさ・男しぐさ」(おんなしぐさ・おとこしぐさ)

性差別をつくらない江戸の知恵!

女性は控えめでつつましく、男性は勇ましく思慮深く振る舞うのが、
「女しぐさ」「男しぐさ」である。

例えば、力仕事は男性が行なうものであり、奥向きの家事関係は女性の担当だった。
現代では男女差別だという声が上がりそうだが、決して差別ではなく、役割分担だった。

男女の立場は対等だった。むしろ圧倒的に男性の数が多かった江戸では、女性は尊重されていた。
結婚できた男性は女房を大事にしたという。
女性のほうから離縁を迫る場合も多く、決して男性天国ではなかった。

初対面の第一印象が、その後のお付き合いを左右することがある。


『向嶋言問姐さん』

ただひとりの脱藩大名
2015/05/01

みずから封土を幕府に返還しょうとした大名としては、隠居してから越中二十二万石
を領有していた前田利長(元加賀藩第二代藩主)をあげることができる。実際に封土を
返上してしまった者としては、会津藩四十万石加藤家の第二代加藤明成、刈谷藩二万石
松平家の第二代松平定正などがいる。
 しかし、藩主が藩士のほとんどとともに脱藩を決行したケースは、林昌之助忠崇
(はやししょうのすけただたか)くらいのものであろう。その藩とは、徳川十一代将軍
家斉の時代に立藩を許された上総貝渕藩あらため請西(じょうざい)藩一万石。慶応三年(1867)、
二十歳にして第三代藩主となった忠崇は、翌年閏四月三日に59人の藩士たちと
ともに脱藩。旧幕府遊撃隊の伊庭八郎、人見勝太郎(のち寧)らと合体し、東海道を
江戸へ進撃しつつある新政府軍に立ち向かうことのしたのである。
 館山湾から乗船して相模灘を西へ押し渡った一行は、真鶴に上陸。すでに上野の彰義隊
も壊滅していた5月20日には小田原藩から箱根の関所を奪い、新政府軍の流れを遮断して
大いに気を吐いた。
 だが、26日に起こった新政府問罪軍二千七百人あまり対遊撃隊二百七十三人の戦いは、
前者の勝利に終わる。忠崇たちは館山に戻って奥羽越列藩同盟に加入することに決め、
以後は平潟、盤城と転戦した。
 9月21日、すでに奥羽越列藩同盟は瓦解したと知って忠崇は降伏謹慎に踏み切るのだが、
林家の本家は唐津藩小笠原家だったので忠崇の身柄は同家に預けられた。かれが青天白日
の身となったのは、明治五年(1872)1月6日のこと。すでに請西藩領は明治政府に没収
されていたにもかかわらず、忠崇は行くあてもなかったのだろう。真武根陣屋と呼ばれて
いた林家の陣屋跡に入植して野良仕事に打ち込んだ。
 これらのことは長編小説『遊撃隊始末』史伝『脱藩大名の戊辰戦争』に詳述されている
ところだが、ここでは忠崇の後半生を眺めておく。
 明治6年、東京府に十等属の下級官員として拾われ、学務課に勤務。同8年、辞職した
忠崇は北海道の函館に流れ、豪商仲栄助商店の番頭になった。その後は神奈川県座間市
にある龍源院の寺男を経て大阪府に奉職したものの、給料は安くて生活は苦しかった。
 旧大名諸侯は華族に列せられ、子爵になることができたのに、かれは版籍奉還以前に
請西藩を消滅させてしまったため、この恩典に俗せなかったただひとりの大名になって
しまったのだ。
 その後、苦労に苦労を重ね困窮の生活を送っていたが、気の毒の思った知人の尽力で
忠崇は無爵華族(爵位をもたない家族)になることができた。おかげで忠崇は、明治27年
9月に宮内省東宮職出仕となり、庶務課に勤務することができた。
 昭和12年、90歳を迎えた忠崇は、菩提寺である芝区愛宕下の青松寺において戊辰
戦争請西藩戦没者の招魂祭七十年祭を主催。集まった新聞記者たちに、「現在に於いて
当時の事を思うと如何なる感想が浮かびますか」と問われると、俳句で答えた。
「琴となり下駄になるのも桐の運」
健康法は、との質問には、こう応じた。
「浮世は一夢の如し」
 地位も名誉も捨てて佐幕派として蹶起した脱藩大名は、すでに人生を達観していたので
ある。
 その忠崇は昭和16年1月8日、陸軍大臣東条英機が「戦陣訓」を全軍に示達してまもなく
風邪を引き、22日午前11時に眠るがごとく大往生をとげた。享年九十四才。
 ただひとりの脱藩大名は、最後の大名でもあったのである。

<幕末三百藩・藩主とお姫様:歴史読本編集部より>


画像@ 真武根陣屋出陣前の林忠崇21歳。
画像A 戊辰戦争では、幕府の遊撃隊として忠崇とともに
     戦った伊庭八郎。
画像B 昭和12年90歳の林忠崇。

銭湯つき合い
2015/04/29

相手を思いやる江戸しぐさ 
「銭湯つき合い」(せんとうづきあい)

文字通り裸のつき合いだった銭湯!

江戸の町屋は一部を除いて
内風呂は禁止されていた。
各家に風呂があると
火事の原因になるからである。

銭湯は武士から町人まで、
さまざまな階層の人間が集まる。
中に入れば身分はなしというのが原則。

この身分上下の垣根を取り除いたつき合いを
「銭湯つき合い」といった。
だがタブーはあった。
給金に関しては聞いてはいけないこと。

銭湯つき合いがきっかけで、
親類のようにまで仲良くなる人もいたようである。


『向嶋言問姐さん』

剣道
2015/04/23

『剣 道』

 庶民が道場に通い剣術を学ぶようになったのは、江戸も幕末近くになってからです。
江戸中期までは、「百姓や町人が武術を習うのはよろしくない」という禁令が出て
いました。
 禁令が緩んだのは、直心陰流の長沼四郎左衛門が小手や面などの防具、竹刀を
開発してからで、それまでの木刀での練習のように、怪我をする危険が少なくなった
からです。槍の練習も、先に詰めた布をつけた「たんぽ槍」が使われるように
なりました。
 剣術がスポーツ化することによって、爆発的な剣術ブームが起こります。
天保以降には道場が乱立し、数千の流派ができました。
 江戸の三大道場といわれたので、千葉周作の「北辰一刀流」、斎藤弥九郎の
「神道無念流」、桃井春蔵の「鏡新明智流(きょうしんめいちりゅう)」です。
 千葉周作は馬医の次男、斎藤弥九郎画は郷士の長男で、千葉周作の師匠で
あった浅利義信は、はじめあさりの行商をしていました。
 そういった人々が新しい剣術を開発したのですが、その中でも、千葉周作は
とてもわかりやすいシステムを作り上げました。めきめき上達するマニュアル化
されたトレーニング法が評判を呼び、全国から人が集まりました。
 道場の収入の多くは、段位を取っていく度にされるお礼です。それまでの
道場は、十段階以上の段位がありましたが千葉道場には三つしかありません。
 それを超えれば最終の免許皆伝です。他の道場と比べて三分の一以下のお金で
習得できたので、よけいに人気が出ました。
 最終的にはお玉が池という一等地に、後楽園球場と同規模の道場ができました。
門弟の数は、じつに三千五百人となり、その中から、坂本龍馬や清川八郎など、
幕末の志士が出ることになります。

「お江戸でござる」杉浦日向子より



「北辰一刀流千葉道場の総師範・千葉 周作」

 北辰一刀流剣術の人気は絶大なものとなり、「力の斎藤弥九郎」・「格の桃井春蔵」
とならんで、「技の千葉」と称された。この三道場は江戸の剣客を三分し、幕末に
於いても大きな影響力を誇った。

 天保三年(1835年)に周作の盛名を聞きつけた水戸藩隠居の徳川斉昭の招きを受けて、
剣術師範とされ、馬廻役として100石の扶持を受けた。

 周作の家族として、弟の定吉は京橋桶町に道場を持って桶町千葉と称された。
次男の栄次郎と道三郎はそれぞれ水戸藩の馬廻役となっている。

 その門下からは幕末の重要人物を多数輩出しており、主な人物として浪士組幹部の
清河八郎、山岡鉄舟、新撰組幹部の山南敬助などが挙げられる。なお坂本龍馬は
定吉に師事しており、直接の師匠ではない。
 処世術に長じた剣士だったという。
<ネット検索>


人物画像:千葉周作

横切りしぐさ
2015/04/16

相手を思いやる江戸しぐさ 
「横切りしぐさ」(よこぎりしぐさ)


無礼なしぐさが認められた唯一例外!

居心地のよい社会の基本は、
無礼な振る舞いをしないことが第一の要点だ。

人が溢れる江戸では、
無礼な振る舞いを極力避ける事が求められた。

例えば、芝居小屋などで
大勢の人が座っている面前を横切るのは
無礼だった。

そんな時は右手を前に出し
「前を失礼します」という意思表示をした。

大名行列など身分の高い人の行列の前を
横切ることは、
手打ちにされても文句が言えない無礼な振る舞いだった。

例外は出産のために産婆が通る場合だけ何よりも優先されました。

『向嶋言問姐さん』

Page: | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 13 | 14 | 15 | 16 | 17 |

- Topics Board -