大江戸雑記
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涼しい日本の山の写真集
http://www.digibook.net/topic/special/mountain2015_2/?mag=20150818
相手を思いやる江戸しぐさ
「喧嘩しぐさ」(けんかしぐさ)
暗黙の決めごとを守った喧嘩!
火事と喧嘩は江戸の華・・・。
江戸の町ではしょっちゅう火事騒ぎや喧嘩騒ぎがあり江戸の名物だった。
初期の江戸では江戸の町の建設中だから、気の荒い男たちが多く、至る所で喧嘩が起こった。
次第に江戸生まれが多くなると、喧嘩といっても暗黙の了解があった。
殴り合いになっても首から上は殴らないこと。
頭を殴れば殺しかねないからである。また決着がついたと見るや周囲が仲裁に入った。
これが「喧嘩しがさ」である。仲裁が入ったら、その人の顔を立て、喧嘩は終了した。
『向嶋言問姐さん』
「西郷の首」は本物だった 西南戦争で自決後、発見将校の「履歴書」見つかる。
http://www.sankei.com/life/news/140307/lif1403070010-n1.html
西南の役(戦争)は明治初期に起こった士族の反乱の中でも、最大規模であり、
薩軍側は総参加約三万名のうち戦死約6,000名、負傷約一万名。約六万名の
官軍は、戦死6,843名、負傷9,252名と記録されている。双方あわせて三万名以上
もの死傷者を出したことになる。
全県が戦場になった熊本では一万四八0六戸の家屋が焼失、一八七八戸が破壊
された。
官軍の戦費は四一五六万円、現在の一兆円を上回る。これは当時の税収の
四分の三を超える。政府は戦費調達のための不換紙幣の乱発が招くインフレーション
と増税、そして通貨の信用回復にともなうデフレで農村は病弊し、都市は流入
する困窮者で貧困層が増えていった。内戦の傷痕は、広く深く日本国民に残った。
@西郷隆盛
A城山戦争之図
B西南戦争の旧会津藩士
江戸っ子には高かった?魚
江戸前ずしが生まれた江戸は、日常的に魚が食べられていた印象がある。だが、
国学院大の安部常樹客員研究院(動物考古学)が、江戸時代後期に江戸を訪れた
ドイツ人医師シーボルトがまとめた食品リストを読み解いたところ、魚の7割が
米1升(約1.5キロ)より高かったことがわかった。
江戸時代の料理書「古今料理集」と「黒白精味集」などからは、格の高い魚は
分かっても、食品の価格の記載はなく、市場の実情については不明だった。
そこで安部さんが着目したのが、シーボルトが1826年(文政9年)4〜5月、
江戸・日本橋で売られていた食品を記録したリストだ。記載された381種の食品には、
青物類、ノリ類などのほか、魚類(クジラやイカを含む)90種、貝類が26種が
含まれていた。調べてみると、魚の価格は料理書での格付けにほぼ比例していた。
江戸中期頃は、1両=4000文が相場。また、日本銀行貨幣博物館によると、
中期から後期の1両は米価から推定して現在の価値で4万〜6万円ほど。1文を
10〜15円と想定して大まかに計算してみると、魚の値段の高さが読み取れる。
最も価格が高かったのは、タイとカツオで、1匹で3両(1万2000文)から1分
(1000文)。時には、18万円費やしていたことになる。値段幅が大きいのは、
型の良し悪しの差があるほか、江戸っ子が初夏の到来を告げる初ガツオには、
金に糸目をつけなかったからかもしれない。
続いてスッポン、サワラ、サケ、マス、カレイなど安く見積もっても1万円
以上の魚が並ぶ。安かったのは、イワシ1匹120〜180円、ハゼ100〜150円など。
当時は、さっぱりした白身魚が好まれたらしいが、現在高級魚のフグは2000〜
3000円と比較的お値打ちだ。毒を恐れたからと思われる。
魚との比較に選んだのは米。リストでは、米は一升で124文(1240〜1960円)。
アワ(800〜1200円)、ヒエ(500〜750円)などと比べ、穀物で最も高かったが、
魚類の71%は、米一升の価格を上回っていた。ちなみに29種あった鳥類も79%が
米より高く、ともに高額な食材だったといえる。海産物でも、貝類は、米より
高かったのは16%だけ。最も高いアワビとホラ貝も1個1500〜2250円だった。
発掘調査の出土品もこうした結果を裏付けている。東京都豊島区の巣鴨遺跡
からは、町家部分のゴミ穴跡から目立った魚骨は出土しないが、貝類が多く
見つかった。一方、港区の会津藩下屋敷跡のゴミ穴跡からは、アジなど1匹
1000〜1500円以下の魚が62%を占めたが、4000〜6000円以上の魚も12%あった。
安部さんは「魚が食卓に出たこと自体が経済的に豊かだったことを示すようだ。
高い魚は、客を招く行事で供された可能性がある」と推測している。
(読売 2015.7.1)
<一言つけくわえると>
確かに、
尾頭付き(魚)は祝い事に。高級魚に手を出せぬは今と同じ。シーボルトリスト
には載っていないサンマ、雑魚それにイワシは庶民の味であったことは紛れもない
事実。江戸通貨を米価からの算定(推定)に問題あり。徳川治世260年、後半期は
半分として130年。明治から今の平成の年数に近い。いかに主食とはいえ一品を
基準にするのが慣行とはいえ、1両=4万〜6万円推移には無理がある。
その時の給与(収入)を基準とすれば判りやすいのではないか。1両=
8万〜20万円になる。幕末、亀山社中(後の海援隊)の給与は月3両余。
1両8万円として24万円。10万円として30万円。1文は10〜40円。
いずれ江戸時代の通貨にくわしく触れる予定。
「浅草ほおずき市」 作者:新 理彩也
http://www.digibook.net/d/1044c197a19b00797c6325807644d1aa/?mag=20150715
行田市・古代蓮の里にて
http://www.digibook.net/d/2495a1bf81da0a74e863bda68a4d91b8/?mag=20150708
江戸庶民の暮らしを体感:江戸東京博物館展示
棟割長屋模型 縮尺1/1 江戸時代後期
長屋は、一つの棟を数個の部屋に区切った住宅である。仕切りの壁は薄く、
資材のほとんどは木と紙だった。江戸の約2割に当たる町人地の通りの奥の
空間では、多くの庶民がこのような部屋で日々暮らしていた。
なかでも、棟の前後で部屋を分ける長屋を「棟割長屋」と呼ぶ。当館には、
庶民の暮らしを表現した実物大模型がある。開館以来、2部屋の部分再現だったが、
今年3月の常設展示室のリニューアルオープンを機に、全5部屋1棟の再現に
生まれ変わった。
以前からあった江戸指物職人の部屋、お産の風俗を表した棒手振り商人の
部屋のほか、@大工職人一家の部屋 A洗い張り業を営む女性の部屋
B自室で寺子屋を営む浪人の部屋ーーを増床した。 特にBの寺子屋には、
新たに5体の人形を配置し、厳しく見守る師匠と、真面目に学んだり、
はしゃいだりする寺子たちの様子がうかがえるようにした。間取りや人物を
含む長屋の再現にあたっては、当時の資料や文献を参考にした。
この度のリニューアルでは、江戸の人々の生活をより身近に感じてもらえる
よう、長屋の周辺に井戸、ごみ溜め、雪隠なども配置した。それにより、
インフラ設備を共同利用していた当時の生活環境を体感できるものとなって
いる。
この棟割長屋模型は、5階常設展示室の「町の暮らし」コーナーに展示
している。 (読売2015.6.11)
「あやめと花しょうぶ」
http://www.digibook.net/d/4f55afbb81dd2a10f846f852c8a7a0f4/?mag=20150624
「水鉄砲」 江戸時代の火消し道具から
子どもの夏の遊び道具・水鉄砲の期限をたどると、江戸時代にあった火消し
道具に行き着きます。
東京消防庁の消防博物館によると、その道具の名も「水鉄砲」。木製で自転車の
空気入れのような形をしていて、高さは1.3メートル。水おけに立て、両手で
取ってを押すと、本体脇の噴き出し口から水が出る仕組みでした。
江戸後期、歌川広重の浮世絵には、この道具を小さくしたおもちゃで遊ぶ
幼い男の子が描かれています。奈良市にある「奈良町からくりおもちゃ館」の
安田真紀子館長は「火消ごっこで遊ぶおもちゃとして、ちいさな水鉄砲が
作られたのだろう」と推測しています。
後に、竹筒をトコロテン突きのように寝かせて使う、持ち運び可能な形が
増え、現代では樹脂製の短銃形が主流になりました。今や、電池式で大量の
水を飛ばせたり、噴射口が複数あったりするものも作られ、大人向けの競技も
盛んです。
(読売2015.6.23)
紫陽花の季節を迎えました。
http://www.digibook.net/d/e0858ddf911da234e47fa1a0dfb4a155/?mag=20150617