大江戸雑記
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武士の学校の最高峰「昌平坂学問所」
https://www.library.metro.tokyo.jp/Portals/0/edo/tokyo_library/gakumon/page2-1.html
「江戸時代の学校」は(1)官学 (2)藩学(藩校)(3)郷学(教諭所)(4)私塾 (5)寺子屋
の五つに分けられます。
(1)官学は、幕府の直接経営に係るもので、江戸または各代官の所在地に設置
されました。
(2)藩学(藩校)は、藩の経営によるもので、多くは藩内に設置しましたが、
江戸藩邸に設けたものもあります。主として藩士やその子弟の教育にあたり、
漢学、武術を主体として、これに国学、医学などを加えました。教授方法は
幕府学問所の制度に準じるものでした。
(3)郷学は、藩学の規模が小さくなったものと庶民教育の道場として郷村に
設置したものとがあります。大人を教育するものを教諭所と呼んでました。
(4)私塾は、教科、教授方法ともに、各塾志向があり、官学、藩学に較べて
非常に自由な立場で教え、主として人格の形成に当たったようです。
概して、フリースタイルの学校といったところです。
(5)寺子屋は庶民のための教育機関です。授業の方法は教師自筆の手本をもとに
生徒が運筆する形式が多く、素読、算術、謡曲、生け花、小笠原諸礼法なども
教えられていました。習字が圧倒的に多く、これに読書、算術が組み合わされて
学科が決められています。修身、歴史、地理、理科、作文、体育なども教え
られていたようです。「日本教育史資料」によると、教師は全国的には医師、
僧侶、神官が中心になっていたようです。
<江戸時代末期の学校数>
藩学(藩校) 247
私塾 1,305
寺子屋 14,471
「日本教育史資料」による。
(参考引用:「至誠の人 山田方谷」山田方谷に学ぶ会 明徳出版社)
@湯島聖堂・昌平坂学問所
A主な藩校
B寺子屋
「江戸時代の入れ歯」
徳川家康も使っていた入れ歯
https://www.jda.or.jp/park/histry/falestooth2.html
入れ歯に関しては日本が先駆け
抜けた歯を補う技術が、紀元前の古代エジプトやギリシャにも
あったようですが、精巧さが求められる総入れ歯は、日本が
先駆けでした。16世紀の室町時代に作られた木製入れ歯が
世界で最も古く現存しています。
欧州では18世紀中頃、フランスの歯科医がバネで口内の
両あごに固定する入れ歯を作りましたが、使いずらく食事に
に不便でした。日本のほうが200年も早く、技術も優れて
いました。
@最古の入れ歯 A欧州製と日本製 B江戸時代の入れ歯屋
相手を思いやる江戸しぐさ
「逆らいしぐさ・戸締め言葉」(さからいしぐさ・とじめことば)
謙虚な態度でものを聞く!
何事にも素直に先輩の言葉を聞くことが良しとされた。
年長者に敬意を払うのも江戸では当たり前のことで、言われたことに従うのが普通
だった。
ところが先輩の言葉を聞かず、何もしないうちから、「しかし」「でも」「だって」
などと文句を言うことは「逆らいしぐさ」として、嫌われたしぐさだった。
先輩達は、自分の経験をふまえてアドバイスしてくれるわけだから、
まずはその通りやってみることが大事で、それによって自らの経験を積めばいいので
ある。
同様に「しかし」「だって」「でも」という言葉は、相手を中に入れない
「戸締め言葉」として嫌われ会話では使わないようにした。
江戸では謙虚で素直な態度が求められた。
『向嶋言問姐さん』
「紅葉探し」
http://www.digibook.net/d/a995a953809f087ce586dc751182621d/
富士山頂からドローンで4K空撮した映像
http://www.mag2.com/p/news/28878
「野辺送り」
今日は秋分の日
野辺送り。まだ行われている地方もあると聞くが、多くの人にとっては
生活の中から絶えて久しい言葉である。
死者の亡骸を火葬場や墓地へ運ぶ際、葬列をなして見送ることだが、
現代は霊柩車を先頭に、会葬者もバスやハイヤーに乗って移動してしまう。
それは正に移動であって、儀式性はほとんどない。しかし、もともと儀式の
中でも最も重要な儀礼のひとつだった。
愛知県半田市出身の児童文学者、新美南吉(1913〜1943)の代表作「ごんぎつね」
には印象的な野辺送りの場面が登場する。<村の方から、カーン、カーンと鐘が
鳴って来ました。葬式の出る合図です。やがて、白い着物を着た葬列のものたちが
やって来るのがちらちら見えはじめました>
喪服といえば黒色が常識の現代とは逆に、白い着物を着た人々が、<赤い布の
ようにさきつづいて>いる彼岸花を踏み折りながら墓地に入っていく。
白い裃を着て位牌を捧げる喪主、棺をかつぐ近親者、鐘を叩く人、幡を持つ人、
天蓋を持つ人・・。それぞれに役割があり、遺族と村人が一緒になって死者を
あの世に送る。戦後、葬式は葬儀屋が取り仕切るものとなり、近年では家族葬も
一般的になってきたが、本来、葬式は地域共同体で出すもんだった。
幼くして母を亡くし、養子に出された南吉は、人間の孤独を見つめた作家だが、
一方で世代を越えて結ばれる共同体の絆も描いている。むしろ、その温もりを
求め続けた人であった。
彼岸花の季節。南吉のふるさとでは地域ぐるみで世話をする三百万本の彼岸花が
咲き誇る。
(転載:新美南吉記念館学芸員 遠山光嗣氏)
矢勝川堤の彼岸花(愛知県半田市)
「大坂城--幕府の威信かけた再建」
大阪城は、戦国時代に浄土真宗大坂本願寺があった地に豊臣秀吉によって
築かれた。この時、全域を石垣で固めたことから、「石山」と呼ぶように
なったという説が最近出された。秀吉による壮大な石垣づくりの大坂城は、
驚きで受け止められたことがうかがえる。
大坂の陣によって豊臣家が滅亡し、およそ5年を経た時点で、江戸幕府は
落城した大坂城の再建に着手した。北国および西国の諸大名が「御手伝普請」
を命じられ、分担して築城にあたった。1620年(元和6年)から29年(寛永
6年)まで行われた工事は3期に分かれた。外堀の西・北・東面を築いた
第1期、本丸の第2期、外堀南面の第3期。期間ごとに工区が大名に振り分け
られた。その分担を示す「大坂城石垣普請大名工区割図」が江戸東京博物館
で展示されている。
大阪城再建は江戸幕府が威信をかけた大事業であったことは間違いない。
事実、豊臣期大坂城の石垣は地中より発見されており、これを大量の土砂で
被覆して、徳川期大坂城が建設されていたことが確認されている。工事の規模
がいかに大きなものであったかが推し量られる。
このように幕府による大阪城再建は、秀吉が築いた大坂城を埋め立て、
その装いを新たにした。加えてこの工事に各地の大名を動員した。すなわち、
豊臣家に代わる権力者徳川家の権威を天下に示す役割を、新しい大坂城は
担っていたのだ。
特別展「徳川の城〜天守と御殿〜」は江戸東京博物館で9月27日まで
展示されている。
(読売新聞2015.9.18--一部修正)
大坂城徳川幕府再築(大坂城の歴史)
http://www.osakacastle.net/history/noshock/haran/tokugawa.htm
(ネット検索)
雨の日は「ドヴォルザーク」の『スラヴ舞曲Op. 72-2』で
癒しを。http://www.digibook.net/topic/famousmusic/classic_016/?mag=20150908
「上杉鷹山の一挿話」
「ある日、・・・老婆が・・・干した稲束の取り入れ作業中に夕立が降りそう
で、手が足りず困っていたが、通りかかった武士2人が手伝ってくれた。取り入
れの手伝いには、お礼として刈り上げ餅(新米でついた餅)を配るのが慣例で
あった。そこで、餅を持ってお礼に伺いたいと武士達に言ったところ、殿様お屋
敷(米沢城)の北門に(門番に話を通しておくから)というのである。お礼の福
田餅(丸鏡餅ときな粉餅の両説あり)を33個持って伺ってみると、通された先に
いたのは藩主<鷹山>であった。
お侍どころかお殿様であったので腰が抜けるばかりにたまげ果てた上に、(そ
の勤勉さを褒められ)褒美に銀5枚まで授けられた。・・・
<このことを、彼女>が、嫁ぎ先の娘に宛てて書いた手紙が残っている。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E6%9D%89%E6%B2%BB%E6%86%B2 前掲
この挿話は三つのことを物語っている。
一、農民と武士との間に、気軽に助け合うような平等な関係が見られた。
二、農民も武士も人間主義的な人が少なくなかった。
三、農民もまた、識字率が、女性を含め高かった。
(ネット検索より)
江戸時代の身分別人口
http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/7860.html