大江戸雑記
・月数回更新しています。
江戸日本には乞食がいなかった?
http://d.hatena.ne.jp/jjtaro_maru/20120830/1346331966
@乞食 A本の好きな?乞食 B1930年頃の中国の乞食
シュリーマン旅行記 清国・日本(7)
<八王子>
−幕末の文久元年(1865)六月十八日〜二十日。この時節の日本は梅雨。
飽くなき探訪を続けるシュリーマンであるが、惜しむらくは雨に煙る八王子の
全身像を捉え切れなかったようだ。
旅行者にとってはその地の自然の美しさや埴生の豊かさは、中国・朝鮮で
あろうとも感動は変わらず、人手のかかった創造物の違い、清潔さ、民度が
また心を動かすのであろうー
『横浜滞在中、あちらこちらに遠出をしたが、とくに興味深かったものに、絹の
生産地である大きな手工芸の町八王子へイギリス人六人と連れ立って行った旅が
ある。
六月十八日日曜午後三時十五分、われわらは馬で出発した。貸馬屋から一日
六ピアストル(三十六フラン)で馬を借りておいたのである。馬丁を七人雇ったが、
彼らは下帯だけの素裸で、馬とスピードを競うかのように駆け足でわれわれの
あとを追った。
馬丁たちは全身に鮮やかな色で化け物や神々の入れ墨をほどこしていて、その
いくつかは、ほんとうに傑作のように思われた。前方にはつねに巨大な火山・
富士山が見えていた。・・・
われわれは高名な豊顕寺で休息した。寺は、針葉樹、椿、シュロなどの美しい
木立に囲まれている。
寺は木造で、屋根は茅で一メートルの厚さに葺かれ、田舎にある日本の寺が
そうであるように、屋根の棟にそって百合の花が植えられている。境内に足を
踏み入れるや、私はそこに漲るこのうえない秩序と清潔さに心を打たれた。
大理石をふんだんに使い、ごとごてと飾りたてた中国の寺は、きわめて不潔で、
しかも頽廃的だったから、嫌悪感しか感じなかったものだが、日本の寺々は、
鄙びたといってもいいほど簡素な風情ではあるが、秩序が息づき、ねんごろな
手入れの跡も窺われ、聖域を訪れるたびに私は大きな歓びを覚えた』
ーなんと八王子は「御蚕(おかいこ)」の町ー
『われわれは街道をギャロップで進みつづけ、ほどなく養蚕地域に入った。
どの畑も、イタリアと同様、桑の木の並木によって区切られている。枝は
1.5メートルないし2.5メートル以上に伸びないように切られている。桑は
五、六年経つと根こそぎ抜かれ、若い苗木に植え替えられる。というのは、
ここでもシナやインドと同様、蚕の飼料として桑の若木の葉がより適して
いると確信しているからである。われわれの通った村々はどの家も蚕室が
あった。畑はどこもかしこも巧みに耕されている。豊かな雨とたくさんの
小川のおかげで農作業は容易だ。家畜がいないのでその肥料を使うことが
できないから、畑を肥沃にするには、引き抜き刈り取ったあと腐るにまかせた
雑草と、町中でていねいに集められた人糞が使われる。』
『われわれは夕方六時に原町田という大きな村に着き、とある茶園(日本では
茶屋という)に一夜の宿を求めた。・・・茶屋の正面は16メートルあり、
二階建てだった。藁葺き屋根は棟が百合の花で飾られていた。一階の間仕切りは
すべて引戸でできている。・・・茶屋の床は磨かれ、きれいな竹の敷物で
被われている。広間に家具はない。唯一長さ1メートル、高さ、幅66センチの
蓋のない箱(箱火鉢)がニ箇あるだけである。箱には炭火が入っていて、人々は
その上で茶をたてる。左奥にある棚の上に、繭が入った竹の茣蓙がたくさんある。
繭は蚕の蛹を殺して絹を取り出すため、熱湯につけられる。そうしないと蛹が
繭を破って蛾になり、生糸が取れなくなってしまう。・・・
われわれは二階の一室があてがわれた。夕食後、われわれ全員が入れるくらい
大きな蚊帳が二張吊られた。蚊帳の中で頭を木の小さな枕にあずけ、床に敷かれた
ござの上に疲れた手足を伸ばした。』
『一晩中雨が降り、翌日もどしゃ降りだった。にもかかわらず、朝食後午前
十時三十分、八王子の町へ向かって出発した。滝のような雨を少しでも、
避けようと、雨季(梅雨)に田畑を耕す日本農民が使う藁のマント(蓑)を
求めた。しかしこのマントはあまり役にたたず、間もなくずぶ濡れになって
しまった。ひどいぬかるみだったが、つねに速足で進み、午後一時近くに
八王子に到着した。
田園はいたるところさわやかな風景が広がっていた。高い丘の頂からの
眺めはよりいっそう素晴らしいものだった。十マイルほど彼方に、高い山々を
いただいた広大な渓谷が望まれる。
やがて八王子の茶屋ーー原町田のそれとよく似ていたーーに着いた。人口は
二万くらい。われわれは町の散策を始めた。家々は木造二階建てで、時折
見かける耐火性の「練り土」の家は銀行か役所であった。たいていの家に絹の
手織機があり、絹織物の店を出している。道幅26メートル、約一マイル[二キロ]
近くもつづく大通りにそって、ところどころに車井戸がある。滑車には一本の
綱がかけられ、両端に桶がくくりつけられている。一方の綱をたぐりよせると、
満杯になった桶が上がってくる間に、もう一方の桶に水が満たされるというわけ
である。
しのつく雨のせいで思うように町を見ることができなかった。夕方五時ごろ
八王子を出てびしょぬれになりながら、七時に原町田に着き、そこで一夜を
過ごしてから翌朝横浜に向かった。』
<注1> ー〇〇〇ーは説明拙文、『』は抜粋引用文、・・・は「中略」
<注2>
・原町田村:現在の町田市
・八王子:交通の要衝。中世から近世・近代に至るまで東西を走る甲州街道と、
川越・桐生・日光(千人同心街道)など関東北西部、小田原・鎌倉・横浜
(浜街道)など南西部・南東部を結ぶ街道が交差する交通の要衝であり、
江戸時代には、甲州街道の宿場町として栄えた。
・八高線ーJR東日本が運行する鉄道路線。東京都八王子市の八王子駅から
群馬県高崎市の倉賀野駅を結ぶ。
・シュリーマンの訪れた豊顕寺(ぶげんじ)
http://onkuru.exblog.jp/10087461
@豊顕寺 A八王子図 B八王子織物組合・明治時代
稀代の「メロディーメーカー」と名高い
フランク・シューベルトが手掛けた傑作
『4つの即興曲 第2番』♪
http://www.digibook.net/topic/famousmusic/classic_024/?mag=20160517
丘一面をブルーに染める”450万本のネモフィラ”作者:Kanji Miyamoto
http://www.digibook.net/d/4d94e53fa08e9ec0302dfcb5e8ee5325/
史上最大の金持ち 200兆円
世界初のデリバティブ取引は大阪から始まった。
http://blog.livedoor.jp/archon_x/archives/1591732.html
@淀屋絢爛 A堂島 B現在の淀屋橋
シュリーマン旅行記 清国・日本(6)
<江戸(横浜)上陸>A
ー大名行列を見る絶好の機会に恵まれる。それも将軍家茂の上洛行列ー
『六月七日と八日、日本政府は横浜の外国新聞を通じ、また道路に日本語の
立て札を立てて、大君(実質的君主)[徳川家重]が同月十日、正(和宮)の
兄にあたる帝(聖の君主)を訪ねるため、大勢の供をひきつれ、東海道
(大街道)を通って江戸から大坂(京都の誤り)へ向かう旨通告した。混乱を
避けるため、行列が通過するさい、外国人には立ち会わないよう要請し、また
日本人については、東海道に面した店はすべて戸口を閉めて行列が通り過ぎる
まで外に出ないよう厳命した。しかし六月九日、横浜の英国領事は、幕府に
かけあった結果、横浜から六マイルのあたり、東海道筋の木立に陣取って
外国人が行列を見物できるよう、許可をとったと発表した。』
ー土地柄をよく観察するシュリーマンは指定の場所まで歩いて行く。いつもの
観察眼は怜悧で鋭く、埴生・地質・肥料(人糞)まで思いをいたすー
『一時間ほど歩いて、私は大君の行列を見ようと外国人たちに割り当てられた
木立に着いた。外国人が百人くらい、警備の役人が三十人くらい集まっていた。
さらに一時間半ほど待たされたあと、行列が通りはじめた。
まず大勢の苦力[奴]が竹の竿に荷物を通したものを担いできた。つづいて
長い白か青の上着を着て黒か濃紺のズボン(たっつけ袴)を踝に縛りつけ、
青い靴下[足袋]に藁のサンダル[草鞋]を履いて、漆塗りの竹製の帽子[陣笠]を
被り、背中に背嚢を負った兵士[足軽]の大隊。彼らは弓矢、あるいは鉄砲、刀で
武装していた。
士官たちは質の良い黄色のキャラコの衣服に、膝までとどく明るい青か白の
上着[陣羽織]をつけていた。上着には高い位を表す白い小さな紋が付いていた。
踝のところで締めた青いズボンに、やはり青い靴下と藁のサンダル[足袋と草履]、
黒い帽子を被っていた。腰には二本の刀と扇子を一本差している。馬には蹄鉄を
打っておらず、かわりに藁のサンダルを履かせていた。次にまた苦力がつづき、
そのあとから背中に赤くて大きな象形文字をつけた長く白い服[陣羽織]を着て
馬に乗った高級武士[老中、若年寄]が現れた。さらに徒歩の槍持兵の二大隊、
大砲二門、また歩兵が二大隊、大きな漆塗りの木箱を担いだ苦力、白か青か、
赤の服を着た槍持兵が歩いていく。赤い象形文字のついた白服の馬上の高官たち。
白くて長い上着の兵士の大部隊。馬丁が四人、黒い覆いですっぽり包まれた
鞍付きの馬を四頭曳いてきた。そして美しい黒漆塗りのノリモン[車輪のない駕籠]
[輿]。そのあとに金箔で百合の花[葵?]をかたどった金属の軍旗がつづく。
いよいよ大君が現れた。他の馬と同様、蹄鉄なしで藁のサンダルを履かせた
美しい栗毛の馬に乗っている。大君は二十歳くらいに見え、堂々とした美しい
顔は少し浅黒い。金糸で刺繍した白地の衣装をまとい、金箔のほどこされた
漆塗りの帽子を被っていた。二本の太刀を腰に差した白服の身分の高いものが
約二十人、大君のお供をして、行列は終わった。」
ー翌朝、驚くべき光景をー
『翌朝、東海道(大街道)を散歩した私は、われわれが行列を見たあたりの
道の真ん中に三つの死体を見つけた。死体はひどく切り刻まれていて、着ている
物を見ても、どの階級の人間がわからないほどだった。横浜で聞いたところに
よると、百姓が一人、おそらく大君のお通りを知らなかったらしく、行列の
先頭のほんの数歩手前で道を横断しょうとしたそうである。怒った下士官が、
彼を切り捨てるよう、部下の一人に命じた。ところが、部下は命令に従うのを
ためらい、激怒した下士官は部下の脳天を割り、次に百姓を殺した。まさに
そのとき、さらに高位の上級士官が現れたが、彼は事の次第を確かめるや、
先の下士官が気が狂っているときめつけ、銃剣で一突きするよう命じた。
この命令はすぐさま実行に移された。三つの死体は街道に打ち捨てられ、
千七百人ほどの行列は気にもとめず、その上を通過していったのである』
ー史実によれば上洛の第一の目的は萩藩再征であったー
<注> ー〇〇〇ーは説明拙文、『』は抜粋引用文、・・・は「中略」
@将軍家茂上洛の行列見物(錦絵) A参勤交代 B生麦事件
相手を思いやる江戸しぐさ
「頭越しのしぐさ」(あたまごしのしぐさ)
紹介者を立てる江戸の気配り!
初対面の人が信用できるのかできないのか、その判断は時間がかかる。
無駄を省く方法のひとつが、紹介者を立てること。
長く江戸で商売をしていれば「のれん」という信用もあったが、
新しく店を開いた商人は、紹介が必要になる。
目的の人と取引をする場合は、必ず紹介者に了解を求めた。
紹介者を無視した取引をした場合を「頭越しのしぐさ」と呼び、タブーとした。
『向嶋言問姐さん』
<三越の由来>
三井越後屋呉服店は、江戸の名所絵にも描かれるほど繁盛したが、幕末の
急激な物価高騰や、幕藩体制の崩壊により、深刻な経営危機に陥った。
そこで1872年(明治5年)、井上肇ら明治政府の首脳は、三井家に銀行に専心
させるため、不振の呉服店を三井家から分離するよう勧告。家業だった呉服店の
分離をしぶしぶ受託した三井家は、三井の「三」と越後屋の「越」の字をとって
三越家を創設し、三井家から呉服事業を三越家に譲渡することになった。
その後、86年に洋服部を新設して政府高官の洋装化に対応し、翌年には
政府の群馬県新町紡績所の払い下げを受けるなど新たな需要に応え、経営を
改善していった。そして93年には、三越家は三井性に復性することが認め
られ、三越は三井家の家業に戻り、合名会社三井呉服店が誕生する。
ところが1904年(明治37年)、三井銀行、三井物産、三井鉱山と
比べて、事業規模の小さい三井呉服店は、三井家の事業編成の過程で、再び
三井家から分離されることになり、株式会社三越呉服店として独立した。
このように三井から三越へ営業譲渡されたが、・・・呉服店から百貨店に
転身していく過程を紹介した企画展「近代百貨店の誕生 三越呉服店」
で、江戸東京博物館で5月15日まで展示されている。
(読売新聞2016.4.1)
『ヴァイオリン・ソナタ春』
http://www.digibook.net/topic/famousmusic/classic_023/?mag=20160405
シュリーマン旅行記 清国・日本(5)
<江戸(横浜)上陸>
ー上海から東洋蒸気船会社の北京号に乗り、横浜に向かう。わずか三日の快適な
旅のあと、噴煙がたちのぼる硫黄島火山(鳥島)を通り、美しい景観を見せる
九州本島に沿って進んだ。
乗組員は、シナ人、マレー人、ラスカール人(インド・ボンベイ出身のヒンズー
教徒)、マニラ原住民、イギリス人、モカ出身のアラブ人、ザンジバル出身の
アフリカの黒人たち-中央アフリカの焼けつく太陽のもとに生まれた彼らは
もっぱら釜焚きに。現代では考えられない国際的な顔ぶれに驚く。決して奴隷では
なく仕事を求めてきた連中だ。一等船客はシュリーマンを含めて18名。ほとんどが
ヨーロッパ人。
硫黄島火山(鳥島)に着いてから二日後、有名な火山「富士山」を望む。
船が横浜に近づくに連れて、よりはっきりと。いよいよ恋い焦がれて来た国に
着くー
『翌六月四日、私は上陸のため早起きした。甲板にのぼると、自分がもはや中国に
いるのではないということを実感した。中国では、蒸気船が入港するたびに、舳先に
二つの大きな目玉をつけたペンキ塗りの汚い小舟が群がってきて、船を囲んでしまう。
小舟を操るのはいつも、赤ん坊を入れた籠のようなものを背中にくくりつけた女が
二人とか、辮髪を踝まで垂らした男と幼児を背負った女とかであった。ところが、
ここでは屈強な男二人を乗せた小舟がただ一艘浮かぶだけである。
彼らが身につけているものといったら一本の細い下帯だけで、そもそも服を着る
気があるのかどうか、あやしまれるくらいだ。しかし彼らはからだじゅう、首から
膝まで、赤や青で、龍や虎、獅子、それに男女の神々を巧みに入れ墨しており、
さながらジュリアス・シーザがブルトン人について語ったところを彷彿させる。
すなわち「彼らは衣服こそまとっていなかったが、少なくとも見事に(からだを)
彩色している」。
髪型も、隣人であるシナ人のそれとはずいぶん違っていた。額から頭頂部まで
三インチほど剃りあげ(ちょんまげ)・・・これは貧しい船頭、人足からもっとも
裕福な大名(日本の封建諸侯)にいたるまで共通した髪型で、日本の男子に他の
結い方はない。』
ー二人の男は、横木の先端に固定されて回転を支えるようになっている小さな軸に
ぴったり合う長い魯(伝馬船)を使って漕ぎ、埠頭へー
『船頭たちは私を埠頭の一つに下ろすと「テンポー」と言いながら指を四本かざして
みせた。労賃として四天保銭(十三スー)を請求したのである。これには大いに
驚いた。それではぎりぎりの値ではないか。シナの船頭たちは少なくともこの四倍は
ふっかけてきたし、だから私も、彼らに不平不満はつきものだと考えていたのだ。』
ーまたー
『上陸するや、人足が二人やってきて、私の荷物を竹竿に釣り下げて運ぼうと
した。だが、彼らの身体、とりわけ手足はほとんど「かさぶた」で覆われており、
ひどい疥癬に罹っているのが見てとれた。そこで二人を追い払い、皮膚病に冒されて
いない者を探したが、誰もいなかった。埠頭には人足は多いが、みな皮膚病を
患っていた。三十分も待ってやっと病気に罹っていない男を二人見つけた。彼らは
私の荷物を税関まで運んだ。−
ーその税関はー
『日曜日だったが、日本人はこの安息日を知らないので、税関も開いていた。
二人の官吏がにこやかに近づいてきて、オハイヨ(おはよう)と言いながら、
地面に届くほど頭を下げ、三十秒もその姿勢を続けた。
次に中を吟味するから荷物を開けるようにと指示した。荷物を解くとなると
大仕事だ。できれば免除してもらいたいものだと、官吏二人にそれぞれ一分
(2.5フラン)ずつ出した。ところがなんと彼らは、自分の胸を叩いて「ニッポン
ムスコ」[日本男児?]と言い、これを拒んだ。日本男児たるもの、心づけにつられて
義務をないがしろにするのは尊厳にもとる、というのである。おかげで私は
荷物を開けなければならなかったが、彼らは言いがかりをつけるどころか、ほんの
上辺だけの検査で満足してくれた。一言で言えば、たいへん好意的で親切な応対だった。
彼らはふたたび深々とおじぎをしながら、「サイナラ」[さようなら]と言った。
ー 二人の人足を連れて、居留地のホテルへ。ホテルの新しい部屋に落ち着いてから
横浜の町を見物に出かけた。1859年には小さな漁村だった横浜も、いまや人口一万
四千人。道路は全て砕石で舗装。青みがかった瓦葺の木造二階建ての家が道に
沿って並んでいる中、シュリーマンの探訪が続くー
『地震のために、日本では煙突が一本もない。しかしそもそも日本人はそれを
まったく必要としていないのだ。ごはんを炊くにもお茶をいれる湯を沸かすにも、
家の両側にあって、終日開け放たれている出入り口とか、窓の引き戸などから
煙を逃がしているからである。
道を歩きながら日本人の家庭生活のしくみを細かく観察することができる。
家々の奥の方にはかならず、花が咲いていて、低く刈り込まれた木でふちどられた
小さな庭が見える。日本人はみんな園芸愛好家である。日本の住宅はおしなべて
清潔さのお手本になるだろう。・・・
主食は米で、日本人にはまだ知られていないパンの代わりをしている。日本の
米はとても質が良く、カロライナ米よりもよほど優れている。・・・
家族全員が、そのまわりに正座する。めいめいの椀を手に取り、日本の箸で
ご飯と魚をその小さな椀に盛り付けて、器用に箸を使って、われわれのフォークや
ナイフ、スプーンではとても真似のできないほどすばやく、しかも優雅に食べる。
食事が終わると主婦が椀と箸を片付け、洗って、引き戸の後ろの棚に戻す。
このようにして食事の名残は、またたく間に消えてしまう。・・・
夜の九時ごろには、みな眠ってしまう。家族がその上で一日を過ごしたござは、
同時にベッド、マットレス、シーツの用を務めるのである。そこに枕を加えれば
いいだけだ。・・・
日本人は終日正座しつづけても疲れない。しかも、その姿勢のまま読み書きしても、
紙や本をたてかける机などの必要を感じない。税関ではこのようにして二十五名から
三十名からの官吏が、広間の中央に横二列に座り、帳面に非常な速さで上から下へ、
右から左へ筆で書いている。実に奇妙な眺めである。
スカーフやハンカチーフはない。男性も女性も、服の袖の中にパゴダ・スリーブ
(一種のポケット)がついていて、そこに洟をかむための和紙(懐紙)を入れている。
彼らは、この動作をたいそう優雅におこなう。自分の家で洟をかむときは、この紙を
台所の竈にくべ、人の集まる場所では、この紙を静かに畳み、外にすてさせるために
召使を目で探す。召使が見つからなければ、袖に紙をしまって、外に出たとき捨てる。
彼らは、われわれが同じハンカチーフを何日も持ち歩いているのに、ぞっとしている。
苦力(クーリ)や担ぎ人夫たちの身につけるものは、別当(馬丁)と同様、幅の
狭い下帯と、背中に赤や白の大きな象形文字の書かれた紺色のもの[半纏]だけである。
彼らはたいてい体中に入れ墨をしている。日本には馬車がなく、重い荷物を運搬する
には二輪の手押し車が用いられる。荷を満載して二輪車を、人夫が六人がかりで
押したり引いたりしているところに出会う。・・・
日本人が世界でいちばん清潔な国民であるkとおは異論の余地がない。
どんなに貧しいひとでも、少なくとも日に一度は、町のいたるところにある公衆浴場に
通っている。・・・にもかかわらず日本には他のどの国よりも皮膚病が多い。疥癬を
やんでいない下僕を見つけるのに苦労するほどだ。この病気の原因を探るには実に
苦労した。いろいろ見聞したことから推量するに、唯一の原因は、日本人が米と同様に
主食にしている生魚[刺身]にあると断言できると思う。
「なんと清らかな素朴さだろう!」初めて公衆浴場の前を通り、三、四十人の全裸の
男女を目にしたとき、私はこう叫んだものである。私の時計の鎖についている大きな、
奇妙な形の紅珊瑚の飾りを間近に見ようと、彼らが浴場を飛び出してきた。誰かに
とやかく言われる心配もせず、しかもどんな礼儀作法にもふれることなく、彼らは
衣服を身につけていないことに何の恥じらいも感じていない。その清らかかな素朴さよ!
オールコック卿の言うとおり、日本人は礼儀に関してはヨーロッパ的観念をもって
いないが、かといって、それがヨーロッパにおける同様の結果を引き起こすとは
考えられない。なぜなら、人間というものは、自国の習慣に従っていきているかぎり、
間違った行為をしているとは感じないものだからだ。・・・
日本政府は、売春を是認し奨励するいっぽうで、結婚も保護している。正妻は
一人しか許されず、その子供が唯一の相続人となる。ただし妾を自宅に何人囲おうが
自由である。
貧しい親が年端も行かぬ娘を何年か売春宿に売り渡すことは、法律で認められて
いる。契約期間が切れたら取り戻すことができるし、さらに数年契約を更新することも
可能である。・・・娼家を出て正妻の地位につくこともあれば、花魁あるいは芸者の
年季を勤めあげたあと、生家に戻って結婚することも、ごく普通におこなわれる。
娼家に売られた女の児たちは、結婚適齢期までーすなわち十二歳までーこの国の
伝統に従って最善の教育を受ける。つまり漢文と日本語の読み書きを学ぶのである。
さらに日本の歴史や地理、針仕事、歌や踊りの手ほどきを受ける。もし踊りに才能を
発揮すれば、年季があけるまで踊り手として勤めることになる。
遊郭は、町から離れた一角に集められている。江戸の遊郭はきわめて数が多く、
城壁や濠によって他の地域から隔てられた、もうひとつの町をつくっている。
吉原である。・・・
吉原には十万人以上の遊女がいる。しかしどんな遊女でも外に出るには通行証が
必要で、通行証を手に入れるためには、相当なお金を用意しなけえればならない。
遊里の営業権は、各町ごとにセリでいちばん高い値をつけたものが、数年間に
わたる独占権とともに政府から払い下げられる。遊里の収入は莫大で、国家の
もっとも大きな財源の一つになっている。』
ー 十万人の遊女は間違い。最盛期で四千人。国家の大きな財源でもなく風紀上の
問題で吉原へ。江戸の文化ともいえただの風俗だけではなかった吉原の微妙な
存在は、さすがのシュリーマンの理解の範囲を越えていたのではー
<注>ー〇〇〇ーは説明拙文、『』は抜粋引用文、・・・は「中略」
@入れ墨 A銭湯 B吉原の花(歌麿)