大江戸雑記


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イザベラ・バードの「日本紀行」
2014.2.11

「日本紀行」と「江戸時代の遺産」
「小柄で、醜くて、親切そうで、しなびていて、がに股で、胸のへこんだ貧相な人々。身長は5フィート(約152cm)ないのです」
これは『日本紀行』の最初の章に見られる日本人の体躯の特徴の一節。
イザベラ・バードが東京に訪れたのは1878年(明治10年)ちょん髷がざんぎり頭になったとはいえ、庶民の生活は未だ江戸時代の延長線上。19世紀の類稀なる女性旅行家のバードは、6月から9月にかけて東京を起点に日光から新潟へ抜け、日本海側から北海道に至る北日本を旅し、また10月から神戸、京都、伊勢、大阪をも訪ねている。
その旅行記が"Unbeaten Tracks in Japan"Unbeaten Tracks in Japan"(直訳すると「日本における人跡未踏の道」・・邦訳「日本奥地紀行」)

通訳兼従者の伊藤鶴吉の金銭関係のこずるさを認識しつつも、有能さには感嘆し雇用できたことに感謝もしている。定期的に鶏を入手し栄養補給をしながら、感動と落胆失望を繰り返す道中。
とくに
山形県南陽市の赤湯温泉の湯治風景に強い関心を示し、置賜地方を「エデンの園」とし、その風景を「東洋のアルカディア」と評した。
http://okibun.jp/bird/
他方(たほう)
日光の北にある山間の集落について「不潔さの極み」と表し、「私が日本人と話をかわしたり、いろいろ多くのものを見た結果として、彼らの基本道徳の水準は非常に低いものであり、生活は誠実でもなければ清純でもない、と判断せざるをえない」と阿賀野川の津川で書くなど、 
日本について肯定的な側面と否定的な側面双方を多面的に記述している。

翻って『江戸時代の遺産』のスーザンBハンレーの反論を引用してみよう。
「明治初期に日本にやって来た西洋人たちは、概して中流階級で裕福な家庭の出身であった。彼らは毎週風呂に入っていもし、ヴィクトリア朝の大きいが雑然とした家に住んでいた。彼らはよい食事をして。たいていの者は生活環境について、なにが正しく、文明的で、健全であるのかを非常に強固な意見としてもっていた。
不幸にも、日本の宿屋で寝床に虱を見つけた者もいたし、日本の食事が口に合わない者も、日本の部屋は何もなくて意心地が悪いと考えた人もいたのである。しかし、多くの記述で欠けているのは、翻って自分たちの国々に思いをめぐらし、同じような人々や環境と比較することである。西洋人は日本の食べ物に拒否反応を示したが、それは日ごろ食べ慣れたものではなかったからであって、それが不衛生のものだからではなかった。イザベラ・バードが、食べる気にならなかった食物や自分の持ち物をそこに置きたくないと思ったほど汚い部屋のせいで気分が悪くなったのは、アメリカ合衆国(9年後に訪れたシカゴの宿屋)においてであって、日本でではなかった。重要なのは、今日の工業化社会に比べて住宅、食物、衛生状態が多様であったことであり、また、自分自身の国とは違った別の国での状況に拒否反応を示したり、おぞ気をふるったりした旅行者は、単に自分自身の故国の社会にいた貧しい人々の悲惨な状況に気づいていないだけのことが多かった、という事実である。確かに日本は西洋とはたいへん異なっていたが、物質文明や生活条件の面では、必ずしも住みにくい社会ではなかったことは明らかである」
 


「大名行列に土下座は不要だった」
2014/02/09

「土下座」
江戸の町は対等の社会、平等の社会だった。人間は仏の前では皆同じという精神がバック・ボーンになっていた。あいさつはひとつでも、たとえば「おはようございます」と言った人には「おはようございます」と丁寧に同じ言葉で返さなければ失礼になったという。時代劇にでてくる大名行列に町人が土下座するスタイルは江戸の町に入ると見られなかったし、武士が連歌の会や茶の湯などの町人の集まりに参加する時は刀をささなかったという。「三脱の教え」というのもあった。その人の年齢、職業、地位に触れてはならないことで、思いのほか江戸は身分の上下のない社会であった。

江戸しぐさ「傘かしげ」
2014/01/25

「傘かしげ」
雨や雪の日、相手も自分も傘を外側に傾けてすっとすれ違う。お互い体にしずくがかからないようにするとともに、ぶつかって傘を破らないようにする意味も含んでいた。しかし、基本は相手に対する思いやりと譲り合いの精神があってこそできること。

スーザンB.ハンレーの「江戸時代の遺産」
2014/01/20

<中世に貴族に生まれるのであればイギリス、市民で生まれるなら江戸>アメリカの高名な女性社会学者の言葉・・とよく江戸を語るときに名前なしで引用されてきたのは、スーザン・B・ハンレー(Susan B. Hanley)。現在ワシントン大学の
名誉教授、その著書『江戸時代の遺産』指昭博訳(中公叢書)の第一章末の記述にある<1850年の時点で住む場所をどちらか選ばなくてはならないなら、私が裕福であるならイギリスに、労働者階級であれば日本に住みたいと思う> 
訳によってこんなにインパクトが違うのかとも思うが、
「近代以前の庶民はひどい生活をしていたという考え方」が否定され、「明治以降の日本の近代化の成功が『奇跡』などではなく、西欧と『類似した』諸条件が江戸時代に整っていたことで可能になった」
と江戸庶民の日常生活からの視点で理論づけている。
日本でもごく最近は江戸時代が見直されはじめたが、なぜアメリカ人がそこまでと不思議に思っていたが、解けた。ハズは日本人学者のオシドリ夫婦。いずれにしろこの学者夫婦に乾杯!
新潟県立大学でのSusan B. Hanley女史と夫の山村耕造氏の特別講義(下掲)をご参考に。

http://www.gp-unp.net/terashi_1/11_index.html

@ご夫婦 Aスーザンの若い頃 B著書

江戸しぐさ「陽にとらえる」
2014/01/09

「陽にとらえる」
悪い面は知っていても、人の良いところ、明るいところを前向きにとらえていく。江戸の人たちはものごとを楽観的にとらえるようにつとめた。ウィスキーのボトルを前にして、中身がもう半分しか残っていないと考えるか、まだ半分残っているから、まだ楽しめると思うか、ものは考えようでおもしろくもなるし、つまらなくもなる。

ちょっとみちくさ新春写真3点
2014/01/01

新春写真3点「うさぎと・中華を食べて・レモンをかじって」

幕末の三舟「山岡鉄舟」
2013/12/27

「山岡鉄舟」
山岡鉄舟は勝海舟、高橋泥舟とともに「幕末の三舟」と称される。鉄舟は泥舟の義弟。明治時代の政治家、思想家。剣・禅・書の達人としても知られ、身長6尺2寸(188センチ)、体重28貫(105キロ)と大柄な体格であった。
勝海舟が、徳川家処分の交渉のため官軍の西郷隆盛への使者としてまず選んだのは、その誠実剛毅な人格を見込んだ泥舟であった。しかし泥舟は慶喜から親身に頼られる存在で、江戸の不安な情勢のもと、主君の側を離れることができなかった。代わりに義弟の山岡鉄舟を推薦、鉄舟が見事にこの大役を果たし、江戸無血開城がすみやかにおこなわれた。ちなみに3月13日・14日の勝と西郷の江戸開城の最終会談にも立ち会っている。
その行動力は、西郷をして「金もいらぬ、名誉もいらぬ、命もいらぬ人は始末に困るが、そのような人でなければ天下の偉業は成し遂げられない」と賞賛させた。

明治維新後は、徳川家達に従い、駿府に下る。6月、静岡藩藩政補翼となり、清水次郎長と意気投合、薫陶を受けた次郎長は富士裾野の新田開発を手がけ、若衆には英語を学ぶことを説いた。維新後の鉄舟の略歴は、明治4年(1871年)、廃藩置県に伴い新政府に出仕。静岡県権大参事、茨城県参事、伊万里県権令を歴任した。明治21年(1888年)7月19日9時15分、皇居に向かって結跏趺坐のまま絶命。死因は胃癌であった。享年53。全生庵に眠る。

江戸しぐさ「むくどり」
2013/12/20

「むくどり」
物の言い方(会話のエチケット)を知らない人を指した。むくどりはどこからともなく群れをなして飛んできてエサをついばみ、それがなくなると、また群れをなして飛んでいくところにちなんでいる。このような人は「人間より金や物」を大事にするので、江戸っ子の発想とは違うと嫌われた。

江戸しぐさ「年代しぐさ」
2013/12/14

「年代しぐさ」
志学(十五歳)、弱冠(二十歳)、而立(三十歳)、不惑(四十歳)、知命(五十歳)、耳順(六十歳)など江戸の町衆は、年齢に応じたしぐさを見取り合っていた。耳順のしぐさは「畳の上で死にたいと思ってはならぬ」「己は気息奄々、息絶え絶えのありさまでも他人を勇気づけよ」「若衆(若者、ヤング)を笑わせるよう心掛けよ」だったという。

ちょっとみちくさ「照干一隅 此則国宝」
2013/12/05

最澄の教え「一隅を照らすこれ則ち国宝なり」
http://www.maekiya.com/annai/ichigu_a.html

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