大江戸雑記
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「送り言葉、迎え言葉」
商店ではお客様をお迎えする時、お見送りする時、粗相がないように定形の表現を使った。来店について、またお買い上げいただいたことについて心からお礼の気持ちを伝えるためだ。戦前、百貨店の松屋では、お客様の帰りぎわに「ありがとうございます」ではなく「お礼申し上げます」と言わせていた。本来は「いらっしゃいませ」はおかしい。「(ようこそ)いらっしゃいました」と言うべきだ。ファミリーレストランのデニーズは「ようこそ、デニーズへ」という言い方を定形化している。
「線香」
香木や生薬の粉末を練り、棒状に固めた線香は、13〜14世紀に中国で使われ始め、日本には室町時代に伝わったとされます。香道の祖とされる三条西実隆(さねたか)の日記「実隆公記」に1486年(文明18年)、陰陽師から九州土産として「繊香」を受け取ったとあり、琉球経由で伝わってきたとみられます。一般的なお香と異なり、直接火を付けられ、一定速度で燃え続けるため、貴族や僧らが仏事に重宝したようです。江戸時代に入り、堺や淡路島などで量産が始まると庶民にも広まります1824年に出版された「江戸買物独案内(ひとりあんない)」には、線香問屋37軒が載っています。江戸の花街では1本が燃え尽きる時間で花代を決めるなど、時計代わりに使われることもありました。最近は仏事を離れ、香りを楽しむ線香も人気です。読売新聞の会員制サイト「ヨリモ」のアンケートで、線香の香りを「好き」だと答えた人は74%でした。
(読売新聞14.3.25)
「江戸の百人番頭」
番頭は今日で言えば部長の意向を忖度していろいろ心配り、手配り、手配りする人づかいのうまい課長だろうか。同じ課長でも一匹狼で人気抜群のマンガの主人公、島耕作とはちょっと違う。一人でも百人も使いこなせる力量の持ち主に対する最上級のほめ言葉で、唐人(当時の外国人)の間に出して恥ずかしくない男っぷりという意味で使った。百人番頭の男の指図で軽快に動き回る面々については、江戸ではただの手足と言わず、頭手足と言った。人を使う立場、人に使われる立場それぞれの器量が厳しく吟味されていた。
「握りずし」
握りずしは、文政年間(1818〜30年)の江戸で誕生したとされます。福井出身のすし職人、華屋与兵衛が確立しました。名古屋経済大短大部の日々野光敏教授(民俗学)によると、それまでのすしは魚と飯を発酵させたなれずしや、押しずしなどです。与兵衛は酢を混ぜた飯と、酢で締めたり煮たりして一手間加えた江戸湾の魚介を握り、屋台に並べました。
客は好きな物をつまみ、立ち食いします。おにぎりほどの大きさで、手軽に腹を満たせるとせっかちな江戸っ子の評判を取り、追随する店が増えました。江戸末期の「守貞漫稿(もりさだまんこう)」には「江戸は鮨(すし)店ははなはだ多く、毎町一、二戸」とあります。
1923年の関東大震災の後、被災した多くのすし職人が故郷に戻ったことから、全国に広がったとされます。高度成長期の58年、回転ずし店が大阪に誕生し、全国チェーンも増えた今は気軽に楽しめるようになりました。(読売2014.1.28)
「アリス・マンロー」
去年、村上春樹を蹴落としてノーベル文学賞を受賞。無国籍小説とは違い、代表作「林檎の木の下で」「イラクサ」「小説のように」はカナダの街や田舎町が舞台。3作とも性愛が主人公の人生の転機となっているが、長い年月を見通し透徹した短編に仕立てあがっている。書評にもあるが、まるで長編小説の読後感。淡々としかもこんなに人生を俯瞰した小説を描けるものかと不思議に思う。
こんな筆(作風)で江戸庶民の泣き笑いの歳時記を描いて欲しいものだが、去年引退してしまったのが残念。是非、手に取ってほしい本だ。
「ありがたい」
ありがたいとは、有り難いと書き、よくあることではないということ。買い物はどこでしても良いのに、わざわざ当店ごときで買って下さるとは有り難いこと。そこで、その行為に感謝して「お礼」申し上げる。ありがたいは略式表現。「ありがたくおん礼申し上げます」と続けるのが本当だった。今日の「ありがとうございます」という表現はこの変化形。外国人によると日本語の中で最も美しい言葉のひとつが「ありがとう」だという。心が伝わるからだろう。
若かりし頃、兄弟・姉妹そろって香港でフィーバ。酔いにまかせてタットーを。いまだに刻印は残っているという。
オバマ大統領より日本大使を政治任命。あのケネディの才能の継承は見られず単なるお嬢様。センチメンタルジャーニはほろ苦い。
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「あいすみません」
すみませんは「澄みません」と書く。目の前の人を仏と思える江戸の方のように澄んだ気持ちになれないと詫びる言葉。「せっかく、お越しいただいたのにお気に入りの品物がなくあいすみません」。江戸の人々が極力、濁音を避けたのも、この「澄む」ことに対するこだわりからきているようだ。
「江戸のダイナミズム」
作者の激越な思想書ともいえるが、江戸の記述に関しては共感を覚えることが多。
社会構造的に江戸と明治の間に大きな切れ目断層はなく、それは室町時代から江戸時代との間に見られることであり、江戸時代は今のわれわれにずっと近いと喝破する。
元禄泰平の時はヨーロッパは魔女狩り。その後の産業革命以降の物質文明に乗り遅れたが250年間にわたって培われ熟成した江戸の文化・社会構造が、明治維新を成功させる。
その核は儒教。葬式仏教ではなく古来の神道でもない。『日本の儒教』は本家の中国では考えられないような方向へ展開し、予想外の巨大なスケールの仕事がなされた。
スーザンBハンレーの書を検証し共鳴。江戸時代と同時期のヨーロッパとを比較。決して勝るとも劣ることはなく、暗い封建時代と捉えることに問題ありと説く。
江戸の先進性として
(一)参勤交代
幕府による大名支配の抑圧と教科書的に考えられてき たが、大名同士の江戸詰め屋敷による情報交換、全国的な経済交流への発展、全国交通システムの向上など。
(二)身分制度
能楽師から将軍側用人に取り立てられた例もあるように、身分秩序が絶対に動かないというものではなかった。また各藩においてバカ殿は座敷牢に閉じ込められた「主君押し込めの構造」があり家老重臣の間で合意があれば幕府も黙認した、民主主義の萌芽があった。
(三)商業の分野
江戸・大坂の巨大市場が成立。大坂の堂島の米市場のごときは「商品先物取引所」としてシカゴより1世紀も先んじていた。また徳川幕府の安定政権の下で貨幣経済が整備され何よりも自前の貨幣鋳造が行われた。金銀銅の大産出国であったわが国は、銅の貨幣を中国、東南アジアその他に輸出し、かって宋銭を輸出した中国が日本の銅に依存するようになったいう。
(四)江戸の近代性
・ソロバンから世界最初の並列コンピューターが作られ、江戸後期加賀藩で使われた。
・聖書解釈学に先んじて、仏典の歴史批判を行った富永仲基の『出定後語(しゅつじょうごご』は、大乗非仏説といわれるようなラディカルな近代文献学のはしりをなしたものであるが、ヨーロッパの聖書解釈学よりも百年は早かった。
・西洋の置時計をヒントに「不定時法」の機械時計、和時計、からくり時計など先進的なテクノロジーが見られた。
『不定時法』の時計だが「定時法」の時計をつくるのは簡単だが、夏場・冬場の一日の一刻の長さが変わる不定時法を時計で表すには高度な天文学の知識と同時に、独特の機械仕掛けに対する工芸の技がなければできないが、これをやってのけたのが「からくり」というテクノロジー。この技術が現代日本のロボット産業に受け継がれ、また時計産業の基本をもなしている。
ドイツ文学者であり極めて深い西洋史観をもつ作者は断言する「西洋世界が東方へ交易路を求めて進出し始めたことは事実だが、18世紀ごろまではまだ西洋世界の内部の”仁義なき戦い”に歯止めがなく、西洋自身がどこへ向かっていくか皆目分かっていなかったということ、大航海時代を『近代的なるもの』の開始時期だとするのはしょせん西洋史における後知恵であり、後からの解釈にすぎないこと、『近代的なるもの』の内容の開示に関しては日本も西洋もほぼ同じレベルであった」
ーとまれー
明治維新時、薩長政府の江戸幕藩体制の全ての否定、『勝てば官軍』のひずみがいまだに呪いのごとく続いているといえる。それはあたかも”GONE WITH THE WINDOW”(風と共に去りぬ) 南部気風が途絶したまさにアメリカの南北戦争直後の情景とオーバラップするではないか。
<参考>
江戸の和時計
http://ammo.jp/ammo/gallery/tokei/t0301/index.html
江戸のロボット
http://www.youtube.com/watch?v=rc93r0onyZg
「死んだらごめん」
いったん結んだ約束はきちんと守る。守れない時は死んだ時だけ--というのがお互いの暗黙の合意だった。転じて
「死んだらごめんと」と言ったら、必ず約束は守るということになった。
<余談>
地方でもよく聞かれたこの江戸ことば。戊申戦争後、薩長の苛烈な追求を逃れ、江戸を離れ地方に身をひそめた江戸難民によって広まる。