大江戸雑記


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ケンペルのみた日本(1)
2014/09/15

ケンペルのみた日本(1)


東の果てにある摩訶不思議な日本。18〜19世紀、日本に関する
バイブルはケンペルの『日本誌』。シーボルトもペリーも手引書に
していた。

1690年(元禄三年)、長崎・出島オランダ東インド会社の商館付き医師
として来日。ドイツの小さな地方都市レムゴーに生まれたエンゲルベルト・
ケンペルは、わずか二年の日本滞在期間に、この日本にまつわる基本的な
諸問題を、自分なりに解決できるための資料を収集することに成功し,
ドイツに帰国。惜しむらくは生活環境が自由な研究を許さず生存中に
「廻国奇観」一冊のみが出版されたのみ。遺稿は大英博物館の創立者で
あったスローン卿に買い上げられ、1727年にようやくスイス人ショイヒに
英訳・編集され「日本史誌」として世に送り出された。
このケンペルの著したに二冊の本は、ヨーロッパの日本観を強く形づけ
するほど影響をおよぼしたといっても過言ではない。

ケンペルは日本に来る前にロシア・中近東・インド・インドネシア
やタイを廻り見聞をひろめた。日本を見るにあたって、すでにアジアの
なかでの日本という視点を身につけていたし、またヨーロッパ文化圏を
代表しうる内実も身にそなえていたのである。
ケンペルの視野の広さや整理の方の方法は抜群で、彼の著作で展開
されている日本観の説得力は、まさにそれに由来している。

ケンペルの所説は日本の「鎖国」を賛美することで有名になったが、それが
述べられている著作『日本誌』は、彼の独力でできたわけではない。
もはやよく知られているように、彼は従者であったオランダ通詞今村現右衛門
(のちの英生)という有為の協力者を得て、はじめてこのような日本に関する
膨大な資料、情報を入手することができたのであり、もし彼がいなかったならば
果たして『日本誌』が書かれ得たか疑わしい。皮肉なことに「鎖国」賛美
とは裏腹に、ケンペルのの業績はまさに「国際的な協働」の結果といえよう。

その頃のヨーロッパは三十年戦争、八十年戦争の動乱が引っ切り無しに続き、
オスマン・トルコ帝国の恐怖や各国内での魔女狩りとペストの流行等で、
文化の発展は様々な阻害を受けたのに対して、日本は諸外国との交際を
自粛的に制限したが、江戸前期には、徳川幕藩体制のもとで、あらゆる分野で
飛躍的な進展ををみることができた。それに驚いたヨーロッパ人は、その原因を
究明することができず、−「あらゆる技術を発明し、発展させてきた」「実に
知恵に富んだ」「嘘も殺人罪も知らない」日本人を、昔の道徳を忘れ、
いや捨ててしまったヨーロッパ人に一つの模範として紹介したのが『日本誌』。

また日本の鎖国政策に関しては「廻国奇観」に、日本にとって非常に
ポジティブな(有効な)政治決断と記している。
「その国の位置と国柄によって外敵の襲撃に対して守りを固め、難攻不落の
備えをなすような国でも、敵をも友をも共に閉め出す鎖国政策をとることは、
そうすることによって他国と提携する共同社会を作るよりもさらに幸福な
満ち足りた生活を営むことができない限り、徒労に終わる。ところが日本人は、
支配者によって鎖国令を布かれて以来、それを行い得ることを実証し、我々も
また、この国の利益をとくに考えてみると、誰でも成程と容易に頷ける節が
あるのである」

ケンペルの研究から生まれた、非常にポジティブな日本観は、ヨーロッパで
約100年の間主流を占め、ドイツ、フランス、イギリス、等のヨーロッパの
文学、思想、哲学に強い影響をおよぼした。しかし18世紀後半に啓蒙主義が
その頂点に達した時点でヨーロッパは自己中心的になり、他の世界を視野に
入れる必要さえも感じられなくなり、日本は中国といっしょにされ、何事も
集団で動く東洋の遅れた社会の一つとしてしかみなされないようになった。

而して、
ケンペルが来日したのは元禄年(17世紀後半)。その後120年経て19世紀前半・
文政年にシーボルトが来る。オランダから日本の総合的な研究を委任されて
日本に派遣されたフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトは、再び
ケンペルの見方にもどり、幅広くかつ比較の立場からの客観的な日本研究に
取り組んだのである。シーボルトはそれをケンペルに由来するものとはっきり
自覚しておりケンペルの著作を出島に持ち込み、仕事を開始するにあたって、
まず商館の薬草園にケンペルの記念碑を建てた。11代目商館医師にあたる
シーボルトの著作「日本」は、ケンペルの『日本誌』と非常に似通った
構造があると指摘されている通りである。



        − To be continued ー


参考文献 「日本誌T〜W」 「鎖国の思想 ケンペルの世界史的使命」
     「ケンペルと徳川日本の出会い」「ケンペルのみた日本」
     「ケンペルのみたトクガワ・ジャパン」「廻国奇観」
     http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%B3%E3%82%B2%E3%83%AB%E3%83%99%E3%83%AB%E3%83%88%E3%83%BB%E3%82%B1%E3%83%B3%E3%83%9A%E3%83%AB

「八百長」
2014/09/08

「八百長」
発祥の地は、東京墨田区両国の回向院界隈だ。総武線を挟んで両国国技館の南側に
ある。明治42年に旧両国国技館が建てられる以前は、この寺の境内で勧進相撲が
行われていた。
当時、天秤を担いで青物を商っていた八百長こと根本長造は、伊勢ノ海親方の
囲碁友達となり、気に入られていた。勝負は互角だが、だいたい親方が勝ち越した。
やがて八百長は、親方の紹介で相撲協会茶屋の株を手に入れ、行商から脱出し、
店を構えて繁盛する。
そんなある日、親方の家の前に碁会所ができ、本因坊と八百長が対局した。
たまたまそれを見た親方は憤然とした。最高峰の本因坊と八百長が好勝負だったのだ。
つまり親方相手のときは、ご機嫌を取るために手加減して適当に負けていたと
いうわけ。ここから「八百長」という言葉が誕生した。
台東区谷中に、「健脚の神様」が祀られ、ランナーに人気の延寿寺がある。
鉄の草鞋や草履が打ち付けられた奉納絵馬が有名だ。この寺で、「八百長」の
名が記された奉納額を見つけることができる。

「読売2011.2.18]

ちょっといい話「秋田県の教育」
2014/08/29

「秋田県の教育」
秋田県は現行の学力テストが始まった07年以降、トップクラスをキープしているが、良いのは成績だけではない。
 児童・生徒へのアンケートで「学校が楽しい」と答えた人の割合は89.3%で全国1位、欠席率は全国最下位だ。稲作以外にはこれといった産業がなく、一人当たりの所得が最下位圏(47都道府県のうち42位)なのに・・。
 「落ちこぼれ」も絶対に置き去りにしない<からだ>。…」

http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2014/08/28/2014082801561.html

ネット 太田コラム8/29より

喫煙しぐさ
2014/08/24

「喫煙しぐさ」(きつえんしぐさ)

相手が吸わなければ吸わないのが基本!

江戸時代に庶民レベルまで行き渡ったのがタバコである。
はじめは贅沢品であったが、各地でタバコの栽培が盛んになり刻みタバコが流通した。

喫煙に対しては常識的な決まりがあった。
まず、歩きながら吸わない。火事を予防するためだ。必ず座って吸うこと。
灰皿の用意がなければ吸わない。灰皿が置かれてない場所は禁煙だった。
ポイ捨てなどとんでもない。往来は城へ続く廊下と考えられていた。

また料理屋などの店でも、相手が吸わない人であれば吸わない。
このようなしぐさを「喫煙しぐさ」と呼んだ。


『向嶋言問姐さん』

駕籠止めしぐさ
2014/08/16

「駕籠止めしぐさ」(かごどめしぐさ)

力をひけらかさない江戸の心配り!

駕籠は江戸でも高級な乗り物のひとつでした。
医者や大店の主人、お金を持っている隠居など、利用する人は限られていた。

商売を始めた者にとっては、いつかは・・・駕籠に乗れる身分を夢見た。
だからといって、駕籠にのれるほど出世しても、それを誇示しなかった。

駕籠に乗って訪問するときは訪問先の玄関まで駕籠を付けず、少し手前で駕籠を降り、
歩いて訪問したのである。

あくまでも控えめに、相手に敬意をもって接していた江戸商人の振る舞い方のひとつである。

『向嶋言問姐さん』

ちょっとよりみち「ジブリの舞台になった場所」
2014/08/10


「絶景!ジブリの舞台になった場所」

http://j.people.com.cn/n/2014/0808/c204149-8767339.html

ちょっとみちくさ「ドイツにもあった特攻隊」
2014/08/07

ドイツにもあった特攻隊
<エルベ特別攻撃隊> ドイツが第二次世界大戦で敗北する約1カ月前に編成した
戦闘機による連合軍爆撃機への体当たり攻撃部隊。独北部のエルベ川周辺に展開した
ため、こう呼ばれる。約180機を動員した。戦果は資料により異なるが、体当たり
で二十数機の爆撃機を撃墜し、同部隊の約80人が戦死・行方不明になったとされる

https://www.youtube.com/watch?v=hD4dH2xdb-A

初めゲーリング空軍総司令官は『(自滅を前提とするのは)ゲルマン的な戦い方
ではない』と言っていた。しかし、ドイツでは燃料も航空機も不足し、
通常の防空戦は不可能だった。唯一、最新鋭のジェット機が圧倒的な速力で大きな
戦果を上げていた。体当たり攻撃で爆撃の足を止めて時間を稼ぎ、ジェット機の
生産を確保したいという説得を、最終的には受け入れた。

「ネット検索」

「お目見えしぐさ・後引きしぐさ」
2014/08/06

「お目見えしぐさ・後引きしぐさ」(おめみえしぐさ・あとひきしぐさ)

もう一度来たいと思わせる心づかい!

初対面の第一印象がその後のお付き合いを左右することがある。

最初に合うときは自分を飾らず謙虚にありのままの姿を見せるように努めた。
これが「お目見えしぐさ」でその後のつき合いや商売で障害にならぬよう 
まっとうなつき合いが心情だった。

別れるときは「後引きしぐさ」を心がけた。
もう一度あなたに会いたい、もう一度この店に来てみたい、
もう一度この品物を買い求めたいという、お客様に対する心づかいである。

店ならまた来てもらう、職人ならまた仕事をもらうという、
相手に与える心地の良い余韻である。

これらのしぐさが、店を発展させたり、注文を多く取れる職人となる基本だった。

『向嶋言問姐さん』

「年代しぐさ」
2014/07/25

「年代しぐさ」(ねんだいしぐさ)

頼りにされた町のご隠居さん!

儒教の教えが行き渡っていた江戸の町では、年代に応じたしぐさがあった。

孔子の年代の分け方とは、
15歳が志学と言って何を成すのか志を立てるとき。
30歳は而立と言って仕事で独立をするとき。
40歳は不惑と言って何事にも惑わないとき。
50歳は知命と言って人生をしっかりと分かるとき。
60歳は耳順と言って耳にすることは全て理解するだけの教養を持つとき。
とされ年代に応じてさまざまなしぐさがあった。

歩き方一つを取っても、志学の人は速歩を旨とし、
而立の人は左右に注意しながら注意深く歩く。
歳を取るごとにゆっくりゆったり歩くのが基本だった。

60歳以上になると人生の先輩として毎日を楽しく、はつらつと生き、
年下の人に注意だけでなく、ユーモアを持って接した。

年長者に対する敬意の精神が基盤にあった。

『向嶋言問姐さん』

「お歯黒」
2014/07/21

お歯黒の歴史的背景や説明はウィキ(下掲)にまかして、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%8A%E6%AD%AF%E9%BB%92

ペリーの「日記」を見てみよう。
 給仕を務めたのは村長の細君と妹で、二人は私たちの前では
ずっとひざまずいていた。そしてひざまずいたまま、サケの入った
やかんをもって客から客へ移動し、頭を床につけてお辞儀をしては、
黒く塗った不気味な歯を見せるのである。村長夫人が、不潔な
赤ん坊--どこでも見かけるたぐいの--を連れてきてこちらに差し出す
ので、私はせいいっぱい愛想よく抱いてみせた。
 砂糖菓子を一つ与えると、子供はくりくりに剃った頭を言いつけ
どおりに下げてお辞儀した。小さいのにお行儀がよいというので、
母親はもちろんその場の女性たちはみな、見るからに得意そうに
子供を褒めそやすのだった。
 この女性たちは、膝から足まで剥き出しで、黒っぽいナイトガウン
によく似た服を着て、それを止めるために腰に幅広の帯を巻いて
いた。髪と目は黒く、太ってずんぐりしている。唇を染めている
ので、黒い歯と傷んだ歯茎がよけいに目立つ。
<ペリーの追記>
 日本人は化粧に用いるこの染料を「ビン」と呼び、小さな丸い
陶磁器に入れて保存している。ヨーロッパの女性とは異なり、
日本女性はこの染料を頬でなく唇に塗る。それが彼女ら自身の
好みなのだ。薄く塗ると唇は赤く見えるが、厚く塗ると赤色を
帯びる。その紫の色合いが、ここではたいへん美しいとされて
いるのだ。くわしく調べた結果、こん染料は紅花からできている
ことがわかった。
 既婚女性と独身女性を区別するのが、その黒い歯である。
日本人はこれをたとえようもなく美しいと考えているのだが、
たいていの国では、妻がこんな歯をしていたら夫はものも
言わずに逃げ出してしまうだろう。口をあけるたびに黒光り
する歯がのぞくのは、少なくとも私の目には醜く見えるし、
どう見てもぞっとしない眺めだと思う。
 これに用いる黒い染料は、オハグロまたはカネと呼ばれ、
尿、鉄粉、サケで作る。きつい臭いがし、腐食性である。歯に
深く染みつくので、こすって洗い落とすには数日かかり、
そうでないと真っ青になってしまう。求愛されたり、婚約したり
するとすぐにこの化粧を始める娘もいる。
注(Thunberg,Travels in Europe,Africa,and Asia VolumeV、
 3rd edition,London,1795)から上掲文引用
「蓼食う虫も好き好き」とはよく言ったもので、私たちは
これを毎日実感している。日本女性のこの習慣を見れば、この
言葉の正しさがよくわかろうというものだ。こんな奇妙な風習
さえなくせば、彼女たちはそれほど醜いわけではないのだが。
若い娘たちは姿形も整っていてかなり美しい。結婚するまでは
歯を黒く染めないからである。
 しかし、ヨーロッパの大半の国々、あるいはわが国なら
どこの地方でもそうだが、そういう地域の対応する地位や
立場の女性たちと、日本女性とを比較することは愚かなことだ。
 実際、女性ー断っておくが、女性のであって肉体のではないー
美しさを形作るどの要素についても、合衆国の女性は明らかに
すぐれている。こう主張しても、身びいきを疑われることは
あるまい。
 これはアメリカ人にはヨーロッパのさまざまな人種の血が
まざっていること、温暖快適な気候の土地で育つこと、そして
言うまでもなく、社会全体が女性を尊重していることによるもの
と思われる。
 引用抜粋「ペリー提督日本遠征日記」訳木原悦子

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