大江戸雑記
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「足組みしぐさ・腕組みしぐさ」(あしぐみしぐさ・うでぐみしぐさ)
立場が違っても相手に敬意を持って接するのが江戸人の基本。
座敷で人と会う場合は、互いに正座し、手を膝の上に乗せて話した。
縁台などに座って話す場合も足を組むようなことはしなかった。
相手を見下すことになり厳禁のしぐさだった。
これを「足組みしぐさ」と言う。
江戸しぐさは商人がいかに商売で成功できるかの基本から生まれた。
それが一般に伝わったものである。
「腕組みしぐさ」も商人たるものやってはいけないしぐさだった。
『向嶋言問姐さん』
江戸後期 ゴローウニン事件
ロシア軍艦の艦長ゴローウニンらが北太平洋を測量中の
1811年、薪水を求めて上陸した国後島で捕縛され、
松前奉行に抑留された事件。ロシア側は、幕府御用商人の
高田屋嘉兵衛を捕らえ、13年に日露間で人質交換が成立し、
解決した。
ところが、
ロシア軍艦の艦長らが日本に抑留されたゴローウニン事件で、
捕縛された1人のムール少尉が1812年に獄中で書いた上申書を、
岩下哲典・明海大教授(日本近世近代史)が精読したところ、
仏皇帝ナポレオンの情報を日本に初めて伝えた文献だったと
判明した。53年の黒船来航以前から、幕府が世界情勢に通じて
いた実情もわかってきた。
<日本に初のナポレオン情報>
ロシアは18世紀末、鎖国してきた江戸幕府に通商を求め、
拒絶されると、相次いで軍艦で蝦夷地を襲撃。情勢緊迫の
さなか、ゴローウニンらは11年、国後島に上陸し、日本側に
捕縛された。ただ、ムールは仲間と離れ、日本に帰化して
通訳になることを望んだ。12年には待遇への感謝、航海や
ロシアの国情の説明を記した上申書を幕府に提出したが、
帰化は認められず、ゴローウニンらとともに13年、失意の
まま帰国した。
この原本は失われたが、翻訳文の写本はいくつか残る。
岩下教授は明海大所蔵の写本を読んでいて、ナポレオン情報に
気づいた。欧州を席巻した経緯や、対ロシア開戦を画策して
いた当時最新の動きなどが記されていた。これまで日本人が
最初にナポレオンを知ったのは、13年、ゴローウニン返還交渉中
にもたらされたロシア語の新聞と思われてきた。
実は徳川幕府は、直営貿易を認めたオランダから定期的に
報告書を提出させ、海外情報を集めていた。ただ、ナポレオン
情報はロシア経由だった。長崎のオランダ商館、本国が
ナポレオンに占領された事実が幕府に知られ、貿易特権を
失うことを恐れ、報告しなかったとみられる。
やがて日本でも、ナポレオンの伝記や戦記が刊行され、
幕末にはその英雄的な活躍が吉田松陰や西郷隆盛らの心を
とらえた。徳川慶喜も大政奉還後、自らをナポレオンになぞらえ、
帝政の実現を目指したとされる。
一般に、黒船来航時に色を失った印象のある幕府だが、
対外交渉を経て、世界情勢に通じていたようだ。岩下教授は
「清国と違い、情勢を知っていた日本は対等な立場で条約交渉に
臨めた。幕府にとって黒船は来るべきものが来たという程度の
認識だったのではないか」とみる。
実はもう一つ秘話がある。
幕府は25年頃、日本への悪意を込めたゴローウニンの抑留記を
入手し、逆に、親日的なムールの上申書を欧州で出版しようと
試みた形跡があるという。「外国世論を動かそうとしたのでしょう」
と岩下教授。鎖国中の幕府のしたたかさな一面もうかがえる。
岩下教授はムール上申書を現代日本語に全訳しており、来年、
出版される予定だ。
(読売 14.11.12)
絵は「俄羅斯人生捕之図」の一部
ケンペルのみた日本(3)
<江戸参府>
幕府が諸大名に課していた参勤交代の制度にならい、オランダの商館長は、
その義務として、毎年一度、長崎から江戸に出向かなければならなかった。
すなわち、商館長は、若干の随員をともなって江戸におもむき、将軍に
拝謁して貿易許可の礼をのべ、献上品を呈するのが年中行事となっていた。
--『日本誌』ポルトガル人がこうした儀式にやむを得ず従ったように、
今またわがオランダ東インド会社の代表者たる商館長もそれに従って
いる。彼は一名ないし二名の書記と一名の外科医をこの旅行に伴うことが
できるが、そればかりではなく身分や官位の異なる一群の日本人に護衛
されるのである。これらの日本人は長崎奉行の支配下にあり、奉行がその
役を任命する。このことは、将軍に拝謁を願う者に敬意を表するかのように
見えるが、実際この護衛の裏にある意図は全く別で、スパイや捕虜の場合と
同じようなものなのである--
というわけで、厳しい監視のもとに実施されたオランダ商館長の江戸参府は、
とうてい自由な旅行とはいえなかったが、牢獄のような出島に封じ込められて
いた彼らにとって、この道中は、直接、日本と日本人を観察するの各好の
機会ともなったのである。
ケンペルも在日中、二度にわたってこの参府旅行に随行した。ケンペルの
日本研究の基礎となる知見が、この旅行によってたくわえられたであろう
ことは、容易に推察される。その著『日本誌』の第五巻は、彼が体験した
江戸参府旅行の記録にあてられている。
参府の行程は、三つの部分からなっていた。第一は、長崎から陸路で九州を
横切って、小倉にいたる行程、通常5日を要する道のり。ついで彼らは小舟に
のって下関にわたり、さらに大きな舟にのりかえ、海路、大阪に向かう。
これが第二の行程で、7日から10日をついやす。第三の旅程は、ふたたび
陸路となって、大阪から京都を経由して東海道をとおり、江戸にいたる。
これには15日前後を必要とした。江戸滞在が約20日間で、同じ行程を辿って
長崎にもどってくるには、たっぷりと3か月はかかった。
この時代、おそらく九州北部から江戸へむかう参勤交代の大名をはじめとして、
旅行者のほとんどが、同じ道筋をたどっていたものと思われる。
<農村ー17世紀の国土開発>
1691年(元禄4)2月13日、ケンペルは長崎をたって、最初の江戸参府の旅に
でた。はじめて長崎をはなれたケンペルが、やがて目にした光景は山野に
ひらかれた水田であった。季節がら、イネはうわっていなかったはずだが、
それは西洋人の目をひきつけるに十分であった。
--『日本誌』今日の旅行では、われわれはよく肥えた谷間や、たくさんの
田圃の傍らを通り過ぎた。田圃のふちの所には、二、三歩の距離で二エレを
越えない高さの茶ノ木が植えてあった。(中略)小田村の右手には、他の場所
よりみごとな田圃があったが、このことは一般に備前の国が米の収穫の最も
多いことを証明している--
17世紀、幕府や諸藩は懸命に米の増産にはげんだ。米の生産をあげることは、
なにはともあれ、食料の安定的な供給を保証した。しかし、土地の評価を
すべて米に換算し、年貢で米を収納することを定めた体制をとった以上、
米を増産することは、年貢というかたちでそれを吸収する藩や幕府にとって、
処分できる余剰米の増加、つまり現金収入の増収に直結したのである。
努力の甲斐あって、米の生産量は、江戸時代のはじまった17世紀初期と
17世紀末期とで1.5倍にふえ、18世紀になると17世紀はじめに比べて2倍近くに
増加したと推計される。
とくに目立ったのは、大河川の河口に位置した平野部を水田化する新田開発で
あった。河口部平野の水田化には、治水のために、おおがかりでかつ高度な
土木技術をともなうところから、河口部平野は、ながく湿地帯のまま放置
されてきたのである。それが、ついに開発の対象とされ、またそれに成功した
ことが、大々的な米の生産増につながったのである。
もっとも江戸時代の農村の発展を新田開発に限定して説明してしまっては、
真相をゆがめることになる。ここでもケンペルが田の傍らに植えられたチャ
の木に注目しているのは、まことに正確な観察であった。水田が拡張される
一方、それとあいおぎなうかたちで、ハゼ・チャ・コウゾといった有用植物の
植栽がすすめられていたからである。
これらの植物は、ハゼが蝋に、チャがお茶に、コウゾが紙に加工されると
いった具合に、いずれも在地の手工業と関係していた。江戸時代の農村では、
手工業を前提とした、もうひとつの開発が活発に進行していたのである。
そしてその結果、元禄期をむかえた日本の庶民は、ようやくにして、蝋燭で
灯りをとり、お茶を日常の飲料とし、紙に字を書くという生活様式を実現
することができたのである。
こうした農村の手工業産品のなかで、ケンペルは、とくに和紙とお茶に
関心をもったようである。彼は、「日本における製紙法について」「日本の
茶の話」という、かなり長い論文を『廻国奇観』におさめている。
とりわけ、ケンペルのお茶に関する精密な記述は、ちょうど17世紀から
18世紀が、西洋にお茶が普及する時期にあたっていたこともあって、
ヨーロッパでは注目を集めた。
− To be continued ー
「お見合い」
江戸時代に庶民に広まる。
お見合いは古来、貴族や武士などの権力者が、家と家の
結束を強める「政略結婚」のために行ってきました。
当人同士のお見合いが庶民に広まったのは、江戸時代から
です。
当時は男性が、世話好きな仲人の紹介を受けて女性宅を
訪問。相手の女性が茶や菓子を配るのを一目見て気に入れば、
茶を飲むなどしてそれとなく意志を伝えていました。
女性に断る権利はありませんでした。明治期に経済が
活発になると、「高砂業」と呼ばれる仲介業者が登場
しました。
戦後の1947年(昭和22年)11月には、東京・多摩川湖畔で、
集団お見合いが開かれました。戦争で婚期を逃した約400人の
男女が参加しました。
後に、男女平等が進むにつれ、恋愛結婚が主流になりましたが、
最近は相手の条件を冷静に判断できるお見合いの良さが
再認識され、各地でお見合いパーティが開かれてます。
(読売14.11.04)
「迎え言葉・送り言葉」(むかえことば・おくりことば)
江戸の町を活気づけた気配り!
「江戸しぐさ」は、もともと商人の知恵から生まれた。
商人の心得として、店を訪れたお客に対しては「ようこそ、いらっしゃいました」と言った。
また、店で買い物をしたお客様が帰る時は、「お買い上げ頂いて有り難く、お礼申し上げます」と言った。
これらのしぐさを、「迎え言葉・送り言葉」と言う。
お客様に対する敬意と感謝である。
また声に出すことによって、店に活気をもたらした。
『向嶋言問姐さん』
米国映画で活躍した俳優達60人の往時と80歳過ぎの現在とを対で比較した写真集。
http://www.sfgate.com/entertainment/slideshow/Actors-over-80-Then-and-now-95408.php
最初に出てくるソフィア・ローレンの姿は衝撃的だ。
美しく老いることがどんなに困難か、しかし、それが不可能ではないこと、が分かる。
<ネット検索>
「うたかたしぐさ」
してはいけないうわべだけの態度!
江戸に住む者同士のつき合いは、半永久的に何世代にも渡って
つき合うことが前提だった。
現代のように、どこにでも自由に行き住むことが的る社会では
なかったから、一度つき合いが始まれば、ずっとつき合うことになる。
だから真面目で真剣だった。
中にはいいかげんでうわべだけ、心ここにあらずといった態度をとる者がいた。
このような人物とは付き合わないのが、大人の常識だった。
『向嶋言問姐さん』
ケンペルのみた日本(2)
『機械文明のなかった文明国』言い得て妙だが、これは
韓国の作家崔基鎬「日韓併合の真実」における江戸時代評。
またマルクスは「資本論」の中で、封建社会のいちばんよくできた、
典型的な封建社会を見たければ日本を見よ、と書いているが、
ケンペルの「日本誌」を読んでそう言ったのか定かではない。
引き続き日本の鎖国を高く評価した「ケンペルの見た日本」
ヨーゼフ・クライナーを見てみよう。
<情報の窓、長崎>
『日本誌』--幕府の各直轄領には、二名の奉行が任命されている。
(中略)しかし長崎の町は、重要な海港であり、それを一層安全
にし、かつまた外国人に対する監視を厳重にするため必要なりとして、
1688年に、ここにはとくに第三の奉行所を置くことにした。(中略)
現在の三奉行は、将軍の意にかなうように知恵を絞り、外国との
貿易を外国人に不利になるよう制限し、日本人には最大の利益を
もたらし、しかも外国人がなおこの地に留まるように工夫を凝らした。
その功により、かれらには日本の騎士の称号である守(かみCami)の
地位が与えられることになった--
長崎は鎖国下における唯一の海外貿易港であり、幕府はこの長崎を
直轄都市として奉行をおき支配にあたらせた。ケンペルの来日した
ころは、長崎の最盛期。市政に従事する役人は1700人余、町数は
八十町、その人口は65,000人におよぶ。出島はもともとポルトガル
商人をおくために造成された人口の島だったが、ポルトガルの通商
が禁じられた後、平戸からオランダ人が移住させられたが、その後
江戸時代を通じてヨーロッパ諸国のなかで、オランダは日本との貿易を
独占することになった。出島のオランダ商館には、商館長をはじめとして、
常時、10人前後のオランダ人が常駐していた。ケンペルはそのオランダ
商館の医師として来日したのである。しかし、彼らの行動はわずか
131アールの出島のなかにかぎられており、また一般の日本人が出島へ
たちいることも禁止されていた。あまりの不自由さに、ケンペルは
牢獄に例えざるを得なかった。
『日本誌』--われわれオランダ人は、この牢屋同然のところに
押し込められ、二重三重に各種の見張り役や同業仲間によって
監視され(中略)、人質といわんばかりの取り扱いを受けている
のである--
なお、ちょうどこの頃、中国人も長崎市中の唐人屋敷に集住が強制
されるようになっていた。出島には、貿易にたずさわる商人のほかに、
商館に所属する医師や科学者も来日して、滞在していた。ケンペルも
その一人にほかならなかった。彼らの中には、のちのシーボルトの
ようにヨーロッパの知識や学問を日本に伝え、日本人におおきな影響を
あたえた者もいる。
と同時に、長崎は、日本の情報を世界に送り出す窓口でもあった。
オランダ商館に滞在した医師たちのなかには、科学者らしい目で
日本を観察し、その結果をすぐれた著述にして残した者も居た。
彼らは、西洋の事情を日本にもたらす使者であったとともに、日本の
様子をヨーロッパに紹介する役割を演じたのであり、ひいては西洋に
おける日本研究の先駆者ともいえた。ケンペルの『日本誌』全五巻は、
そうした立場にあった外国人による日本研究の、もっとも早い時期の
成果にほかならなかった。
オランダ人との折衝には、オランダ通詞が当たった。彼らは、今日で
いえば通訳と税関吏をかねた役人であった。この通詞についても、
ケンペルはすこし言い分があった。
『日本誌』--この通事なるものが、概ねすこぶるお粗末な代物であり、
辛うじて外国語の単語をでたらめに繋ぎあわせ、しかもお国訛りで
自己流に発音し得る語学力しかなく、大抵何を言おうとしているのか
さっぱり判らず、通事と話をするのにもう一人の通事を必要とする
有様である--
ケンペルから不評をかった通詞たちであったが、しかし、彼らは
オランダ人に接することのできる数少ない日本人であった。通詞の
なかには、オランダ人との交流をいかし、すすんで西洋の情報ーー
とりわけ自然科学を学ぶ者もいた。かくして、長崎はしだいに蘭学、
すなわち西洋学の中心地ともなっていくのである。ちなみに、
後にケンペルの「廻国奇観」の一章を翻訳して「鎖国論」とした
志筑忠雄もまた、オランダ通詞の一人であった。通詞のなかからは、
やがて、ケンペルの著書を原文で読み、そしてそれを日本語に
翻訳しようとする人もあらわれたのである。
− To be continued ー
「日本料理」
世界遺産に登録された今と違い、ペリーの評価は芳しくなかった。
ペリー提督日本遠征日記(木原悦子訳)から
それはさておき、日本人の食物に関しては、たいへん結構とは言いかねる。
見た目の美しさや豪華さにどんなに贅を凝らそうとも、日本の厨房は
ろくなものを生み出していないと言わざるを得ない--私たちの見てきた
ことから判断するなら。あるいはまた、条約調印の際に委員たちから
供された食事を基準として、日本人の美食度や嗜好を判断してよいと
するならば(もちろんそうしていけないわけはないはずだが)
ポータハン号上の午餐会で、委員たち(注1)と従者数名に出された料理は、
向こうがだした分の20倍にはなるだろう。
この饗宴を基準にして日本人の生活を判断するとしたら、たまたまこのときの
料理が貧弱でそっけなかっただけではないかと疑われても無理はないと思う。
しかし、食事を出されたことはほかにも何度かあるのだ。量の点ではむしろ
このときが一番多かったぐらいで、料理の種類や調理法はいつも似たり
寄ったりだった。全体として、食という面では、日本や中国よりはるかに
琉球のほうがすぐれていると思う。
<ポータハン号上での饗応 1854年3月27日>
委員たち(注2)からこのすばらしい御馳走(注3)をふるまわれる二日前に、
私は彼らをポータハン号でもてなしていた。主席通訳から聞いたところでは、
委員たちは従者や護衛兵らと同じテーブルには着けないという。召使いや船頭を
除いて、従者らの数はおよそ70名ほでであった。
私は苦労をいとわず、この大勢の客を気前よく接待した。彼らの出した魚の
スープと比べて、アメリカ人の歓迎とはどんなものか教えてやりたいと思った
のだ。
パリ仕込みのコックは、この一週間夜も昼もなく働いて、ニューヨークの
デルモニコ(注4)の料理にもひけをとらない、多種多様の豪華な料理を
準備した。交渉が成功したらこういう午餐会を開こうと私は前々から
考えていて、そのために牛や羊やさまざまな種類の鳥を生きたまま
飼っておいたのである。それとともに、ハム、舌肉、保存用に加工した
大量の魚、野菜、果物を用いて、山のような御馳走が作られた。これは
日本人だけではなく、客を楽しませるためにパーティに参加させた、艦隊の
士官全体にふるまわれたのである。
もちろん、シャンペンをはじめワインも惜しみなく出された。また、
甲板のテーブルには大量にパンチ(注5)が用意され、船室のテーブル
では委員らのためにほとんどありとあらゆる上等のワインが供されたほか、
日本人の好みらしいリキュール、とくにマルスキーノ(注6)が出された。
主席委員の林は、ほとんどすべての料理に手をつけたものの、食事も酒も
控えめだったが、ほかの委員は健啖家ぶりを発揮した。松崎は酔って
すっかりご機嫌になっていたし、ほかの三人も陽気な酒だった。
5人の委員のほかに、私のテーブルにはアボット、ウォーカー、アダムズ、
リーの幹部ら、そしてウィリアムズおよびペリーの両氏が着いていた。
特別なはからいとして、主席委員は森山にサイドテーブルで食事をとることを
許可した。
甲板の一団はどんちゃん騒ぎを始めていた。日本人が音頭をとって
乾杯をし、「イギリス風に」大声ではやし立てているそばで、二組の楽隊が
これに負けじと大音響を立てていたのだ。
テーブルにはさまざまな料理がふんだんに並べられたが、すべてが
魔法のように消えてしまった。食べきれなかった分は、日本人が紙に
包んで例の大きなポケットに入れて持ち帰ってしまったからだ。日本には
大きな紙入れにきちんと畳んだ紙を入れて大量に持ち歩くという習慣がある。
洟をかむためだけでなく、メモをとるのにも使う--そして、友人のもてなしを
受けたとき、残った料理を包むためにも。
私たちが日本人に食事をふるまわれたときは、かならず各人に紙が配られて、
好きなものを包んで艦に持って帰れるようにしてくれたものである。
彼らが自分で砂糖菓子やケーキを選び、それを紙に包んで私たちに持たせて
くれることも多かった。
奇妙なのは、持ち帰る料理を選ぶとき、その種類や調理法に彼らが
頓着しないことである。ソースやシロップなどお構いなく、肉でも
シチューでも砂糖漬けでもいっしょくたくたにしてしまうのだ。
午餐が始まる前に、委員たちは従者をともなってマシドニアン号を
訪れ、乗員たちの一般的な訓練を見学し、またポータハン号の機関の
動きを観察した。そのためにわざわざ機関を動かして見せたのである。
委員たちは、マシドニアン号、ミシシッピ号、サラトガ号の礼砲に
迎えられた。午餐のテーブルを離れた後は甲板に出て、ポータハン号
所属の「エチオピア人ミンストレル一座」なる芸達者な一団の余興を
楽しんだ。
この演し物は非常に愉快で、座を大いに沸かせてくれた。謹厳な
林でさえ釣り込まれて、クリスティ(注7)の勘伽にも負けないほど、
同僚たちといっしょに大笑いしていた。日暮れになって艦を離れる
ことには、全員がいやというほどワインをきこしめていた。
松崎などは、私の首に両腕をまわして、「ニッポンもアメリアも
心は一つ」という意味にことを日本語でくどくどと繰り返していた。
こんなふうに酔って抱きつかれたせいで、私のおろしたての肩章は
台無しになってしまった。
翌日、条約調印前の最後の詰めのために条約館で会ったとき、
この老紳士は苦虫をかみつぶしたような顔をしていた。艦上で羽目を
外したのがきっと決まりが悪かったのだろう。
(注1)幕府の高官たち
(注2)幕府の高官 林大学頭・井戸対馬守・井沢美作守・鵜殿長鋭・松崎満太郎の5名。
(注3)皮肉。ペリーは日本料理は見るべきものがないと
している。
(注4)ニューヨークにある有名なヨーロッパ料理店。
(注5)ブランデー、ラム酒などに果実、果汁、砂糖、香料を加えた飲み物。
(注6)原作はクロアチア産マラスカ種のチェリー酒。人気になって各地でつくられるようになった。
(注7)かってアメリカで、白人が黒人に扮して演じる寄席演芸をミンストレル・ショーとして人気を集めたが、クリティ・ミンストレルズは、司会者兼歌手のクリスティが歌うフォスターの曲で人気を博した。ペリー艦隊の乗組員たちは、「エチオピア人一座」と称してこのクリスティ・ミンストレルズをまねて余興を披露した。
「魚屋しぐさ」(さかなやしぐさ)
子供の心を考えた気づかい!
江戸の町を、勢いよく駆け回って商売していたのが魚屋だ。
天平棒の両端に桶を下げ新鮮な魚を庶民に供給した。
彼等は「棒手振り」「振売り」と呼ばれた。そんな彼らにもしぐさがあった。
なるべく幼児、子供達の目に入らない場所で包丁を使った。
使い方を誤るとケガをしたり、凶器にもなる。
危険の道具として包丁を子供たちに見せないように使った。
このような魚屋のしぐさを「魚屋しぐさ」と呼んだのである。
『向嶋言問姐さん』