大江戸雑記


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大君の通貨
2016/11/19

『大君の通貨』 佐藤雅美著

 サブタイトルで幕末「円ドル」戦争とあるが、これほど詳細且つ明確に
小判(金)流失の真相と背景を描いた本が、昭和59年に発刊されて
いたとは・・・。幕府内での責任不在、のらりくらりの世界は
今も変わらないが、その中で真摯に国を憂える聡明な為政者も
いるには居たのだが・・・

   開国をせまって進駐してきたほとんどの外交官もそうだったが、
アーネスト・サトウも為替差益?を享受したと「一外交官の見た
明治維新」で吐露している。
『小判流出』の元凶は聖人?ハリスに癇癪もちのオールコック。
外交官としての二人の功績はおおきいとされている(下掲)が
驚くべき真相が全て分かる。

「ヨーロッパやアメリカの外交官から見た幕末維新」を俯瞰視した
この書。集大成として外交官達の書と併せて読まれることを是非
お薦めする。きっと目から鱗が落ちますよ。

<参考1:敬けんなるクリスチャン>
日本滞在記 (THE COMPLETE JOURNAL OF TOWNSEND HARRIS)
タウンゼント・ハリス Townsend Harris
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BF%E3%82%A6%E3%83%B3%E3%82%BC%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%8F%E3%83%AA%E3%82%B9


<参考2:晴れやかな実績の外交官>
大君の都 (THE CAPITAL OF THE TYCOON)
ラザフォード・オールコック Rutherford Alcock
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%82%B6%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%BB%E3%82%AA%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%82%B3%E3%83%83%E3%82%AF


              終章

11月末日に「なんやかんや」全て終了削除します。 感謝。

「樹の組曲」樅の木 シベリウス
2016/11/05

『「樹の組曲」樅の木(シベリウス)』
http://www.digibook.net/d/7804851b810934f4660a9ed5f7acc357/?viewerMode=fullWindow


「なんやかんや」今月末で幕を閉じます。思えばこの10数年、
よく我慢してお付き合いしていただき感謝。
 生まれた申年、迎えた6回目の年もあとわずか。江戸や明治の時代
では考えられない昭和人のこの長生き。
 「命ながけりゃ、恥多し」を「よしどうであろうともいい人生だ」
に振り替えるかっこうの時機、余生か。

『大江戸雑記』最後の一偏を思案中。

英国外交官の見た幕末維新
2016/10/22

『英国外交官の見た幕末維新』

アルジャーノン・バートラム・フリーマン=ミットフォード
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%83%8E%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%95%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%83%B3%EF%BC%9D%E3%83%9F%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%BC%E3%83%89_(%E5%88%9D%E4%BB%A3%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%82%BA%E3%83%87%E3%82%A4%E3%83%AB%E7%94%B7%E7%88%B5)

 ミットフォードの『英国外交官の見た幕末維新』は維新後の4年間を日本で
過ごした英国外交官の眼が捉えた臨場感あふれるヒューマン・ドキュメントで
ある。明治天皇・徳川慶喜との会見、時代を先導した藩主や志士たちとの交流、
外国人襲撃事件など、資料的価値はきわめて高い。ミットフォードもアーネスト・
サトウと同じく、オリファントの訪日記を読んでいて、おとぎ話の国を期待して
いたのだが、1866(慶應2)年10月横浜に上陸したときは、あいにくの風雨。
まず眼にした税関役人たちもさえない感じで、期待はずれだった。やがて見ること
になる江戸についても、風景の美しい街だけれども、町並み自体、家畜小屋が
何列も並んでいるようなものだと悪態をついた。しかし67年に入ると、ようやく
江戸に魅力を感じ、日本人にも好感を持ち始め、晩年の回想録は、バラ色の
日本追想で彩られることになる。テキストは1864(慶應4)年、パークス公使に
従ってサトウらとともに、「ミカド」に謁見したときのものであるが、一般の
日本人には容易に知り得ない若き明治天皇の風貌を伝える貴重な証言となっている。
みずから名門の出自だけあって、京都御所を取り巻く雰囲気の描写もさすがに
きめ細かい。ちなみに通訳は外国事務局の伊藤俊輔(のちの博文)で、前出
サトウの文章に引き続き、ここにも登場している。時代は移り、1869(明治元)
年の夏、ヴィクトリア女王の第2王子エジンバラ公が来日されるということが
分かると、日本では大騒ぎになった。外国の王子が天皇を訪問されるのは
初めてであったからだ。浜離宮が殿下の宿舎に決まり、パークス公使あてに、
準備不足のないよう、ミットフォードに手伝ってほしいとの依頼があった。
彼の通訳により、殿下は能の特別公演や相撲、日本の踊り、手品などの芸を
楽しまれたが、その舞台装置の素晴らしさは格別だったと記述している。



<天皇の謁見>

 天子様の宮殿は、「東洋的な華麗さ」という言葉がよく使われるように、外観を
派手に飾り立てることの好きな普通の東洋の有力者の屋敷と違って、気高く簡素な
造りが特徴である。特に防備は施されていなかったが、灰色の瓦をのせた白塗りの
壁で取り囲まれていた。そこには九つの門があり、前述したように、ある大名の
軍隊がそれぞれ警備の任に当たっていた。それは不自然なほど簡素であったが、
御所はそれ自体がもつある威厳を備えていた。場所の節約は常に見すぼらしい結果
を生むものだが、ここではそれが全くなかった。中庭は広々として美しい白砂が
細心の注意をもって整然と敷き詰めてあった。建物は普通の形だったが、全く飾り
がなく、大きく広々として威厳に満ち、それが大きい特徴になっていた。

 皇族方の使用される儀式用の内側の前で我々は馬を下り、政府の高官に案内され、
いくつかの中庭を抜けて控えの間に入ったが、そこで天皇の従兄弟の子に当たる
山階宮に迎えられた。その部屋で砂糖菓子やカステラや茶を勧められ、話をしながら、
昼食の途中であった天皇が宮廷に出る準備をされるのを待つことになった。

 古い金屏風や掛け物に描かれた絵でよく知っていた光景を生きた形で目の当たり
に見られるというのはたいへん興味深いことだった。宮廷服は、中国風の香りが
多少感じられたが、独特で奇妙な特徴を持っていた。顎紐で結んだ黒い烏帽子は、
1830年代の風刺側に見られるような婦人の大きな髷を思わせるよおうだった。
上衣は濃い色の絹地で、ゆったりして幅の広い袖がついていた。刀は帯に差す代わり
に腰に吊られて後方の尻尾のように突き出ていた。袴は上衣より明るい色の布地
であったが、だぶだぶの作りで、体裁がよくなかった。

 しかし、服装全体の中で我々の目に一番不思議に映ったのは靴だった。それは
中庭を歩く時に用いる黒い漆塗りの木靴で、部屋に入る時はもちろん脱ぐのだが、
それを履くと不確かな足どりで、のろのろ足をひきずって歩かざるをえないので、
まるでふざけた歩き方をまねしているようだった。服装全体が新参者の目には
異様に映ったかもしれないが、我々はそれを古い伝統の威厳を示すものとして、
すでによく知っていたので、その奇妙さにもいっこう驚かなかった。
 我々が控えの間で待っていると、突然に騒々しい不思議な旋律が聞こえてきたが、
それは横笛、琵琶、太鼓などの弦楽器、木製楽器、打楽器から成る陛下専用の
楽隊の演奏する音楽で、嘆き悲しむような奇妙な調べであった。これは、我々に
とって全く独特の趣を感じさせるものであったが、英国にいたことのある日本の
紳士が、この音楽はイタリア歌劇を思い出させると言った。いかに想像力を働か
せても、そこまで連想するのは無理ではないだろうか。
 待たされるほど不愉快なことが他にあるだろうか。パークス公使とサトウと私の
三人は、政策の達成のため、危ない目に遭いながら何か月も働いて、この日を
待ったのである。我々は、日本を愛すると同時に、英国にとっても、また世界に
とっても、この政策が重要な意味を持つことを深く心に抱いて、それを正しいと
信じてきた。それなのに、いよいよ最後になって、半時間もカステラとお世辞の
もてなしを受けて、いったい、いつ終わるのかと、うんざりしてきた。
 やっと、その時が来た。やっとのことでーー私が待ちきれなかったことをくど
くどと言いすぎたとしたらご容赦あれーー、我々は謁見の場へ案内された。
パークス公使と私だけが謁見を許されることになった。サトウは我々三人の中でも
一番重要な人物であったが、その時まで英国の宮廷で謁見の経験がなかったので、
礼法に従って、外国の元首の謁見を受けることができなかったのである。
 午前中から、今にも降りそうな天気だったが、運悪く激しい勢いで雨が降って
きたので、濡れた砂に足首まで埋まりながら、いくつかの中庭を雨に濡れて通って
行った。所々に儀仗兵の詰め所があったが、今まで御所の構内が、このように
警備されていることを初めて知ったのである。備前侯が、我々の謁見の間に案内
してくれた。

 ひと続きの階段を二度上って、謁見の間に入ると、そこは細長い広間で、一方は
中庭に面し、他の三方には内側に向いた縁側がついていた。その縁側に、赤と青の
派手な色の服装をした烏帽子を被った楽隊が座っていた。部屋そのものは細長く、
非常に簡素だった。中央に黒い漆塗りの細い柱で支えられた天蓋があり、それは
襞のついた白い絹で覆われ、その中に黒と赤の模様が織り込んであった。襞のついた
幕は引き寄せて黒と赤のリボンで飾られていた。前の二本の柱の、それぞれ内側に、
二フィートほどの木彫りの変わった獅子の像が置いてあり、片方は黒塗りで、もう
片方は金色に塗ってあった。英国におけるライオンや一角獣と同じように、王朝に
何らかの関係がある神秘的な意味が、この獅子の像にもあるのだろう。
 天蓋の下には若い天皇が高い椅子に座るというより、むしろ凭れていた。天皇の
後ろには二人の皇族がひざまずいていた。天蓋の近くに位置し、効果な緑色の
絹地で飾られた一段と高くなった床の上に、パークス公使と私が立ち、先導役の
備前侯が、そのそばにひざまずいていた。天蓋の両側には、二列か三列になって
広間のほうまでずっとつながって薩摩、長州、宇和島、加賀、その他の大名が
並んでいた。その時まで、我々が名前しか知らなかった大名たちの生き甲斐を
初めて、この目で見たのである。それは我々にとってきわめて印象的な光景で
あった。この日の実現することを心に描いて苦労を重ねてきた我々が、これらの
光景を目の前にして、どんなに感慨深く感じたか、お伝えすることは難しいだろう。
 我々が部屋に入ると、天子は立ち上がって、我々の敬礼に対して礼を返された。
彼は当時、輝く目と明るい顔色をした背の高い若者であった。彼の動作には非常に
威厳がり、世界中のどの王国よりも何世紀も古い王家の世継ぎにすさわしいもので
あった。彼は白い上着を着て、詰め物をした長い袴は深紅で婦人の宮廷服の裳裾の
ように裾を引いていた。被りものは廷臣と同じ烏帽子だったが、その上に、黒い
紗で作った細長く平らな固い羽根飾りをつけるのがきまりだった。私は、それを
他に適当な言葉がないので羽飾りと言ったが、実際には羽根のような物では
なかった。眉は剃られて額の上により高く描かれていた。頬には紅をさし、唇は
赤と金に塗られ、歯はお歯黒で染められていた。このように、本来の状態を戯画化
した状態で、なお威厳を保つのは並たいていのわざではないが、それでも、なお、
高貴の血筋を引いていることがありありとうかがわれていた。付け加えておくと、
間もなく若い帝王は、これらの陳腐な風習や古い時代の束縛を、その他の時代遅れ
のもろもろと一緒に、全部追放したということである。
 我々が定められた場所につくと、天皇からパークス公使に対して次のような
言葉があった。

 「貴国の君主がご健康であることを願うものです。我々両国の交際がますます
親密の度を加え、永久不変のものとなることを望みます。二十三日に貴下が宮中に
参内の途中、不慮の災難が起きて、この儀式が延引したことを深く遺憾とするもの
です。それゆえ、本日ここで貴下とお会いすることは大いなる喜びであります。」

 [(原文)貴国帝王安全なるや、朕之を喜悦す。自今両国の交際、益す親睦、
 永久不変を希望す。去る三十日貴公使参朝途中、不慮の儀出来、礼式延引遺憾の
 至りに候。今日改めて参朝、満足に存じ候]

 この挨拶の言葉は、口頭または文章によるものとしてみても、決して優れた出来
とはいえなかった。しかし、当時の状況を考えれば、この中には我々が喜ぶべき
ことが、かなり含まれていたと認めざるをえない。我々が、その前に立っている
君主の祖先は、何世紀もの間、国民にとって神に近い存在であり、外国人にとっては
神話の中の人物であった。彼らは聖なるものとして隔離されて、不犯の生活を送り、
世間との交際はいっさいなかったので、世の中のことは何も知らなかった。今や
突然に、神殿のヴェールは引き裂かれ、神を守るためには、おおぜいの人民が喜んで
自分たちの命を投げ出すであろう、その現人神の少年が雲の上から降りて来て、
人間の子と同じ席に着いたのである。そればかりではなく、彼はその尊い顔を人の目
に触れさせ、「外夷」と親交を結んだのである。これが、当時の日本人の心に映じた
率直な事実であった。

 述べられた言葉には、天の御子としての昔ながらの、尊大で、横柄な調子は
なかった。 初めてのことであったが、女王陛下についても適度の尊敬を籠めて
述べられ、二日前に起きた暴行に対する陳謝は適当な言葉で表現されており、
儀式全体を通じて、特に儀式にやかましい外国人でも、その感受性を傷つける
ようなものは何もなかった。何世紀もの間の障害は取り除かれて、ここに日本は
国際礼譲の場へ諸国と対等の条件で入る準備が整ったのである。

 まだきわめて年若なうえに、女官たちのいる大奥から離れて新しい地位に就いた
ばかりだということから予想されたように、天皇は少しはにかんでいたように
見えた。
 彼の声は囁き声に近かったので、右側にいた皇族が、それを声高に繰り返すと、
伊藤俊輔が通訳した。パークス公使が答辞を、しかるべく述べ終えると、備前侯の
先導で謁見の間を退出した。儀式全体で十五分もかからなかった。

 
 こうして儀式は終わったが、それは、その内容そのものだけでなく、簡素で
ありながら栄光と威厳に満ちていた点において、深く印象に残るものであった。
古くからの伝統と神聖な雰囲気は、きらびやかな王座を飾るインドの王侯の金銀
宝石よりも、はるかに人の心を打つものがあった。



・英国外交官の見た幕末維新 アルジャーノン・ミットフォード 長岡祥三訳 参考抜粋
・外国人が見た古き良き日本 参照引用



一外交官の見た明治維新
2016/10/12

『一外交官の見た明治維新』
アーネスト・サトウ


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%83%8D%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%BB%E3%82%B5%E3%83%88%E3%82%A6



 通詞としてまた一外交官として、関わった人物は後藤象二郎・西郷隆盛・
伊藤博文・桂小五郎・品川弥二郎・大久保利通・勝海舟・高杉晋作・
井上馨等、とくに西郷とは大君政府の代わりに国民議会の設立などおおい
に論じ合った。

 サトウは武田兼という日本女性と生活をともにしたのは、1871年
(明治4)年ごろといわれる。サトウ28歳、兼18歳の時である。
正式の結婚ではなく、サトウは生涯独身であったのだが、他郷にいても
東京の家族には気を配り、経済的な仕送りは続けたという。ちなみに
次男の武田久吉は植物学者となり、小島鳥水らと日本山岳会を創設、
尾瀬沼の保護につとめたことで知られる。


 二度まで実戦に参加して砲煙弾雨の中をくぐり、また攘夷の白刃に狙われて
危うく難をまぬがれたサトウは、外国人の保護の観点からも、刑罰について
考えるところがあった。 攘夷の襲撃は生麦事件を含め29回。
 サトウと同僚のミットフォードのハラキリ肯定は刑執行猶予を考える駐日公使
ハリー・パークスをも動かす。


<腹切り(ハラキリ)、京都における天皇(ミカド)謁見の交渉>

 その朝早く長官は、刑の執行を猶予すべきか、さもなくば減刑してやった
方がよいかということで、私の意見をきいた。ミットフォードがフォン・
ブラント(プロシア公使)から耳にしたところによると、ハリー卿(ハリー・
パークス。オールコックの後任公使)の仲間の公使たちは卿がそういう
気持に傾いていたのを知っており、卿がオランダ駐在官ポルスブルックを
動かして、寛大な処分を言い出させたと考えていたそうだ。しかし、
ミッドフォードと私は、処分を寛大にするのは間違いだということに意見の
一致をみたので、その旨をハリー卿に答申した。
 その晩、伊達(宗城・むねなり)と沢(主水正宣嘉・もんどのかみのぶよし)
がやってきて、長官と晩餐を共にした。卿はこの会食の打ち合わせを仲間の
諸公使には秘密にしておいたのだが、その招待が応諾されると、すぐに知れて
しまった。晩餐後、話は長びいて夜半にまで及んだが、主な話題は懸案の天皇の
大坂行幸に関するものだった。伊達は、行幸の目的は年少の君主に少しでも
外部の世界を見せ、またイギリスの大きな軍艦をも見学させて、啓発することに
あると言った。そして、その際に外国の外交官がもし大坂に滞在中なら、
もちろん謁見は許されるであろうと付言した。

 パークスは、各公使が別々ではなく、外交団を全部まとまって天皇に謁見した
方がよいと述べた。これは、卿がすでに新たな信任状の送達方を本国に要請して
いたので、謁見に際し自分が外交団の上席に占めることになると思ったからだ。
伊達は、現在の首都たる京都は周囲は山に取りかこまれており、必需品はすべて
水路で輸送するほかはないから、首都はおそらく現在の場所から大坂へ移るよう
になるかもしれぬと言った。私自身は、これは薩摩、長州の二藩が各自の軍隊を
進発させるに際し、天皇のからだをその手に擁するため、また事情やむを得ぬ
場合はいつでも脱出させることができるように、天皇を親征されるという告示が
発せられた事実によって、いよいよ確かなものになった。伊達は、前大君(徳川
慶喜)の運命に関する質問にこたえて、それは周囲の状況次第によることで、
だれにも予測はできないと言った。

 大坂の市民は、先代の天皇(孝明天皇)の排外政策や長州藩のかっての攘夷
政策を思い出し、朝廷と長州とが政権を把握して、これまで外国人を擁護して
来た徳川が権力を喪失した以上、もはや外国人一般に嫌悪の的になるだろうと
考えていた。そして、それが一般民衆による各国公使館破壊の理由をなしていた。
おそらく備前藩の人々もこれと同様な考えをいただいていたに相違なかろう。
この最後の理由によって、われわれが死刑宣告に対する減刑を拒否する根拠が
もう一つ加わったわけだ。

 このころロッシュ氏はすでに神戸に帰って来ていて、仲間の諸公使の鼻つまみ
になっていた。諸公使は、ロッシュ氏が自分の椅子の空席になるのを警戒して、
秘書官を代理公使として神戸に残すと共に、自らは江戸へ行ってフランス公使の
役割をつとめ、うまく人々をごまかしたのだと考えていた。
 翌日の午後五代(才介「友厚」)と伊藤(俊介「博文」)の両名が、外国人
射殺を兵士に命じた刑罰として腹切(ハラキリ)を宣告された日置帯刀の家臣の
滝善三郎の命乞いにやって来たが、ミットフォードと私は頑として心を動かさ
なかった。外国公使の間では、およそ三時間にわたる長論議が行われた。その際
ハリー卿は寛大な処分を主張したが、多数の公使は宣告通りに執行することに
賛成だった。五代と伊藤が部屋へ呼び戻され、法律通り執行するほかはないと、
わずか数言で減刑の嘆願が拒絶されたのは、夜の八時半であった。

 九時に、ミットフォードと私は、他の公使館の代表各一名と共に出かけた。
私たちは兵庫のセイフク寺(実は永福寺)という仏教寺院に案内され、
十時十五分前ごろ同寺に到着した。
 寺院の中庭や控えの間には、警備隊が厳重に配置されていた。私たちは一室に
案内されたが、そこで四十五分ほども畳の上にすわっていなければならなかった。
この間に、罪人に対して何か尋ねる事がないかと問われ、また私たち臨検者の
名簿を求められた。十時半に本堂に案内され、仏壇の前の上段の右わきにすわる
ように言われた。ついで、日本側の立会人七名、すなわち伊藤、中島作太郎、
薩摩の歩兵隊長二名、長州の隊長二名、備前の御目付一名がそれぞれ着席した。
こうして、十分間ほど静かにすわっていると、やがて縁側伝いに足音が近づいて
來るのが聞こえた。罪人は、紳士のような風采と顔つきをした、背の高い日本人
で、介錯人に付き添われ、また一見して同様の役目とわかる二名の男と共に
私たちの左手の方へ入ってきた。

すると、薄ねずみ色の裃を着けた一人の男が、紙に包んだ短刀を小さい白木の
台にのせてささげ、一礼して、罪人の前に置いた。滝はそれを両手に取って、
額の辺までおし戴き、再び一礼して下へ置いた。これは、通常日本人が進物を
受けて謝意を表すときの仕種である。それから、彼は、大分乱れていたが、
はっきりした声で、−−声の乱れは恐怖の念や、感情の動揺からではなく、
自己の恥ずべき行為を渋々ながら認めざるを得なかったからであろうーー
二月四日神戸で、逃げんとする外国人に対し不法にも発砲を命じた者はこの
自分にほかならぬ、この罪によって、自分は切腹すると述べ、この場の皆様に
それを見届けてもらいたいと言った。ついで、両腕を袖から引っ込めて双肌を
脱ぎ、長い袖の端を両脚の下にひいて、からだがうしろへ倒れないようにした。
こうして、臍の下まで裸となった。それから、短刀の切先近くを右手で握り、
胸と腹の上をなでてから、できるだけ深く突き刺して、右のわき腹までぐいっと
引いた。だが、下腹部に帯をしめていたので、私たちには傷が見えなかった。
これをやり終わると、彼は頸にうまく刀が当たるように頭を仰向けながら、
ひじょうに注意して上体を前へかがめた。

 一人の介錯人ーーそれは先刻受刑者をつれて、二列に並んでいる立会人に
お辞儀をさせてまわった男ーーは、切腹がはじまった瞬間から抜刀を宙に振り
あげて、罪人の左手の少し後方にうずくまっていたのであるが、今や急に立ち
あがって、一撃を加えた。その音は、私の耳にまるで雷鳴のように聞こえた。
首は畳の上に落ち、からだは前へ傾いで、倒れ伏した。動脈から血がどっと
流れだして、すぐに血のたまりをつくった。そして、血管がすっかり弱り切って
しまったとき、一切が終わったのである。

 小さい白木の台と短刀とが片づけられた。伊藤は一礼して私たちの前へ進むと、
見届けられましたかとたずねた。私たちは、確かにと答えた。伊藤の後から、
御退出の用意はと聞かれた。私たちは立ちあがって、死体の前をすぎ、日本人の
立会人の前を通って、退出した。領事館へ戻ったのは十二時であった。領事館では、
ハリー卿がわれわれの報告を待ちうけていた。

 このときの死刑執行と、ついで堺で行われた土佐藩士十一名の腹切による処刑
についてイギリスに達した新聞報道は、大いに真実を歪曲したものであった。
この二つの事件について世論を惑わした責任は、横浜の「ジャパン・タイムズ」の
経営者兼編集者チャールズ・リッカービィにある。彼は、ミットフォードと私の
立ち会った処刑について記事をでっちあげたが、それは全くの捏造であった。
その結びの文句に、死刑執行に臨んだのはキリスト教徒としてけしからぬ、もし
日本人がこの「法による殺人」に対し復讐しょうとすれば、だれよりも先に
外国公使館の紳士たちを暗殺するだろう、とあった。

 腹切がいやな見世物だという理由で、それに臨席したのは恥だというのだが、
私はむしろ自分が全力をつくして実行させたこの刑罰の立会いに尻込みしなかった
ことを、かえって誇りに思っている。腹切はいやな見世物ではなく、きわめて
上品な礼儀正しい一つの儀式で、イギリス人がよくニューゲート監獄の前で公衆の
娯楽のために催すものよりも、はるかに厳粛なものだ。この罪人と同藩の人々は
私たちに向かって、この宣告は公正で、情けあるものだと告げたのである。
堺で起こった土佐藩士の事件についていうと、これは従来例がなかったほど公正に
刑罰が科せられたものであった。これらの日本人は、少しも害意のない非武装の
ボート乗組員を虐殺したのである。それに、これらの乗組員は決して相手の感情を
刺激するようなことはしなかったのである。しかし、死刑を宣告された二十名中
十一名の処刑がすんだとき、艦長のヂュ・プティ・トゥアールが執行中止の必要が
あると判決したのは、実に遺憾であった。なぜなら、二十人はみな同罪であるから、
殺されたフランス人が十一人だからとて、これと一対一の生命を要求するのは、
正義よりむしろ復讐を好むもののように受取られるからである。
 数日後、諸公使はみな大坂へ帰った。私たちもスタンホープ艦長指揮のイギリス
軍艦オーシャン号で同地におもむいた。この軍艦は、ここに碇泊しているいかなる
船舶をも木っ端みじんに粉砕することができるウールウィッチ型前螺旋砲二十六門
を搭載している四千トンの装甲艦であった。伊達とポルスブルックが私たちと
同行し、運送船のアドベンチャー号が荷物を運んだ。
 前に住んでいた住宅は焼失してしまったので、私たちは中寺町の寺院に泊まった。
そして僥倖にも、私たちの引き払ったあとで暴民に盗まれた家具の若干をそこで
見つけることが出来たのである。町民は私たちを「先日逃げて行った異人さん」と
言って見覚えていたが、きわめて丁寧で、前大君が退去した時のような乱暴な
罵声を浴びることはなかった。

 江戸からの情報によれば、徳川方では官軍の気持ちを和らげるため前大君に
腹切を行わせ、主な幕僚の首をはねる以外に事態収拾の道はないと考えている、
ということだった。私たちは前大君に対し、ある程度の同情の念を禁じ得なかった
が、同時に憤慨の気持もあった。それは、彼が大坂で戦うものと私たちに信じ
させておきながら、内心退却の決意をしていたからである。もし、彼が真実を
話してくれたならば、私たちは薩摩および長州とわれわれとの間の親善関係には
充分確信があったのだから、そのまま大坂にとどまっていることができたと思う。
 私たちはオーシャン号の汽艇で外国人居留地に上陸し、第九連隊第二大隊の
護衛隊と市中を行進して新しい宿舎に入ったのであるが、大坂では天皇が下坂
して艦船を参観されたり、外国公使に謁見を許されるということが、大いに
評判になっていた。私はこの話が取りやめになればよいがと思った。もし天皇に
謁見するとすれば、それは当然京都においてなすべきであるし、さもなければ
その儀式も半ば意義を失うことになるからだ。

・一外交官の見た明治維新下 アーネスト・サトウ 坂田精一訳 参考抜粋、
・外国人が見た古き良き日本 参照引用


シーボルト展
2016/10/11

東京都江戸東京博物館にて
「よみがえれ! シーボルトの日本博物館」を展覧中。
〜11月16日まで。くわしくは↓
http://www.edo-tokyo-museum.or.jp/s-exhibition/#anc01

バレエ音楽「四季」秋-アダージョ
2016/10/05

バレエ音楽「四季」秋-アダージョ
http://www.digibook.net/topic/famousmusic/classic_029/?mag=20161004

川井郁子
2016/10/01

川井郁子 作曲 「夕顔」
https://www.youtube.com/watch?v=TCDQ766oOgY


交響曲第25番 K183より。 原作曲:モーツアルト
映画『アマデウス(Amadeus)』(米・1984年)の主題曲として使われた。
https://www.youtube.com/watch?v=9rSo_WtY4GU


川井郁子 Ikuko Kawai 死ぬほど爱して Sinno Me Merro
[嵐が丘.Live.Concert.Tour.2005]
https://www.youtube.com/watch?v=dPmqEsChhi4


Ikuko Kawai + Caroline Zhang ~ RED VIOLIN by Rodrigo
https://www.youtube.com/watch?v=Emg8dwLV5nU

Ikuko Kawai El Choclo
https://www.youtube.com/watch?v=9kmIcNtofYU

ちょっと脱線
2016/09/24

「清水次郎長」

東海道一の大親分になった秘訣は?と問われて「カネだ!」
と即座に答えた次郎長。高経時代に見た「アサヒグラフ」特集に
出ていたことを鮮明に覚えている。アサヒも毎日グラフも幻の
グラフ誌。ライフを真似た両誌もとおの昔に廃刊。明治半ばまで
生きた次郎長。今や静岡の観光資源に。
子供の頃、よくラジオに流れていた「広沢 虎造」を偶然聴いて
ノスタルジアにかられた。

清水の次郎長
http://jirocho.com/jirotyou-1.html

ヤフーQ&A
Q.清水次郎長一家は何をしたんですか?
A.出入りに明け暮れていました。

「福本茉莉さん 世界4冠のオルガン演奏」
2016/09/11

「福本茉莉さん 世界4冠のオルガン演奏」
http://www.nikkei.com/video/5115296366001/?playlist=4654649186001

辻井伸行.神様のカルテ
2016/09/11

神様のカルテ
https://www.youtube.com/watch?v=frkiykhstMY

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