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「ダンダ リン」

 昭和42年卒です。この年の卒業生は高経大の歴史において最も不幸な目に遭った年次ではないかと思っています。専門課程に入った年に、学生にとっては許し難い無理難題を市長から押しつけられ、それに反対した権利闘争だったと思いますが、全学封鎖などでクラブ活動も専門科目の勉学もしばらくできませんでした。反面、大切なことを学んだと言えるのかもしれません。
 幻滅感に打ちのめされたような精神状態で卒業しましたが、自分の世間知らずを痛感し、自分には向かないが社会勉強になると思う車のセールスマンで社会人生活をスタートしました。この仕事を3〜5年やってそれから適職を見つけようと思っていました。5年後に労働基準監督官採用試験に受かり、公務員として30年勤めました。その後建設会社等に勤務し65歳で職業生活を終わろうとしたのですが、断り切れず現在は総合労働相談コーナーの相談員をしています。
 労働基準監督官になったのは日本経済が高度成長の爛熟期とでもいえる頃で、オイルショックはありましたが活気に満ち満ちていた時代でした。最初の赴任地は茨城県の鉾田署で、管内に鹿島臨海工業地帯があり、鉄鋼コンビナート、石油化学コンビナート等の半分が稼働し、残りを二期工事として建設していて、製鉄所の高炉や転炉、電力会社の火力発電所、製油所の脱硫装置、ガラス工場新設などの大規模工事が華々しく行われていた頃でした。ここで最も多かった仕事は賃金未払申告処理でした。働いた賃金がもらえないなんてことがあるのかと信じられない思いで処理に当たりましたが、解決すると封書でお礼の手紙をいただきました。そういう時代でした。また、当時は労働災害が多く死亡災害も頻発していました。働く人がこんなに簡単にあっけなく死んでしまうのかと驚きました。
 労働基準監督官は、主として労働条件の国が定めた最低基準を守る仕事をしています。最低基準を下回った労働契約はこの最低基準で契約を結んだものとみなされ、労働契約は自由ですがこれを上回る水準で結ばなければなりません。最低基準が遵守されていなくては経済の健全な発展はありえないと思います。平成14年に退職しましたが、その間労働災害は大幅に減少し最低基準が順調に上ってきていると実感できました。
それから10年が過ぎました。今は労働事情が様変わりしています。非正規労働者が全体の4割を占めてきているといわれていますが、労働相談を受けていてひどい労務管理の話を聞くことがあります。確実に底上げがなされてきていたと思っていた最低基準が壊れてるなと感じます。
 この10月から、民放テレビドラマで「ダンダ リン」が放映されています。本来は地味で目立たないいわば経済の底辺を支える仕事をしている労働基準監督官を主役にするドラマがつくられることに驚いています。