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1969年卒業 桑原雅之
"我が人生に悔いは無し"にしたい!
終戦4ヶ月前にに風光根明媚な神奈川県鎌倉市に3人息子の長男として生を受けたと書類上では明記されて居ますが、実際は母親の実家である千葉県大原町の家の裏の竹藪に造られて居た防空壕で生まれたと良く子供の頃から聞かされました。其れから何かの折に戸籍謄本、抄本を取り寄せる度に其れを想い出しその様な状況で幸運にも生を受けたものだと感謝するなり鎌倉とは程遠い現実に幻滅を感じたりした思いを何度か持ちながら今迄生きて来ました。父親は群馬の出で旧制中学校を出てから東京に働きに出掛け其処で千葉出身の母親と知り合い結婚し鎌倉に所帯を持ち私が上記の具合で誕生したと云う次第であります。其の後、戦後の混乱も有り我が家族は私の記憶の無い内に父親の実家のある群馬の地へと移転致しました。之に依り私の群馬との係わりが決定付けられた次第で有ります。
気が付いたら群馬で育って居る事に成り自分なりに悔いの無い時間を過ごそうと努力したつもりですが今と成っては如何なのか疑問ですが暗中模索の内に高崎高校(タカタカ)に入学しがむしゃらな受験戦争に知らずの内に突入していった次第です。常に疑問を感じながら過した3年プラス1年の末縁が有り我が高崎経済大学へ入学と成った次第であります。
喜び半分、悔い半分の複雑な想いを持ちながらの憧れの大学入学でも有りました。
然し入学早々一人のアメリカ人女性との大学のキャンパスでの出逢いが私の将来の方向性をおぼろげながら付けさせて呉れるきっかけと成りました。其の人の名前はマーガレットカーツさんでインディペンデント宣教師でした。そしてもう一つの動機は英語で、彼女の喋る易しい英語が判らなかった事に有ります。直ぐESS
(英語研究部)に入部し先ず 彼女と英語で自由に話せる様に成りたいと云う目的が出来ました。英語のサークル活動と一方では彼女へ日本語の先生(同時に彼女から其れ以上の英語を学びました。)と非常に愉しい4年間を過ごす事が出来ました。其の意味で悔いの無い大学生活でした。其れはESS(英語研究部)と彼女のお陰で有ります。此処に来て社会に出て何をしたいかが有る程度見えて来たとも云えると思います。英語を駆使し世界を相手にビジネスをしてみたいと思いました。ニューヨーク或いはロンドン(其の当時は私に取っては遥か彼方の遠い世界でした。)で世界を見ながらビジネスを展開したいと云うものでした。矢張り一度しか無い人生に悔いは残したく無いと云う思いで遣ってみたいと思いました。
時が数年流れ私はニューヨークに居りました。上記の思いが叶ったのです。幸運も有りますが願いと云うものは通ずるものです。矢張り悔いの無い人生を送ろうと云う一念がして其の希望を叶えて呉れるものでも有ると思います。貪欲に憧れのニューヨークから色んな事を学ぼうと必死でした。高崎の田舎で夢見た事を世界の大都会であり世界のビジネスの中心で有る二ューヨークで思う存分遣ろうとも思いました。今は無き世界貿易センタービルの99階のオフィスで8年間世界と向合い仕事出来たのはこの上ない喜びで我が人生に悔い無き時間でも有ったと今にして思う次第で有ります。其の何年か後に私が帰国した後に9.11の同時多発テロ事件が有り肝を冷やしたのをつい最近の事の様に想い出します。人間の運命の不思議さを痛感せざるを得ません。もし時間の悪戯が何年か前後にずれて居たらと想像しますと私の折角のニューヨークも完全に無となって仕舞って居た次第で有ります。
ニューヨークでの仕事を含めて経験、体験が基盤になり其の後の自分の人生を20年余過して来たと云っても過言では有りませんが此処に来て新たに我が人生を振り返り之で良いのかどうか自問自答する日々が此処2-3年続いて居ります。自分なりに人生に悔いの無い様な毎日を送ろうと思って遣って来た結果がこの様な有り様で此の煩悩を当分引き摺って行く感じで有ります。唯、人生に悔い無しにしたい思いが結果としてその様に成って行くのかも知れません。然しながら当分の間は此の煩悩がとの対峙から逃れる事は不可能とおもわざるを得ません。
残された一日一日を悔いの無い形で過ごし其れに依って我が人生に悔い無しのゴールに到達するのは果たしていつの事か之は生の有る限りの永遠の目的、目標かも知れません!