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                        1964年卒業 野口 広鎮(こうちん)
(一)

ある春の日の夕暮れ時。
「あれどうしましょう?」
前の会話との、なんらの脈絡もなく、食卓で向かい合わせに座る家内が言った。
「――そうだね、あれか……」
茶を啜り、ぼんやり窓越しに庭を見つめながら答える。
「早くしないとまずいでしよう。そうしましょうよ?」
「うん、早くね……」
「そうですよ、困ってしまいますよ」
畳み掛けるように、私の湯のみ茶碗に、なみなみと注がれるお茶。
困ってしまう≠「ったい何のことだろう……。
「あなたたら、いつもグズグズして、ハッキリしないんだから」
「――ところで、あれって何だっけ?」
「あなた、何聞いていたの?」
家内の横に座る娘が、頭を左右に振って、
「お母さん、私にも分からないよ!」
「二人して、どこに耳をつけているのかしら?」
「だって、いつも主語がないんだもの、お母さんの話は」
娘の言葉に、至極滑らかな口調で返す。
「主語……あぁ、それ言わなかったかしら。早く言ってくれればいいのに、ハッキリしない父娘(おやこ)ね」
犯人が途中で分かってしまう推理小説よりも、ずっと面白い我が家の会話。
家内の膝の上に座る年老いた猫が、背伸びをしてから、欠伸をした。
 
(二)

ある梅雨の晴れた日に。
庭の草むしりをしている家内に呼びかけた。
「一昨日(おととい)頼まれことは、何だったっけ?」
目深に被った帽子の庇を、泥だらけの軍手で持ち上げながら、
「えーと、何だったかしら……。何かを頼んだのは覚えているんですが……」
「――頼んだほうが忘れちゃったのか、それじゃ大したことではないな」
「そうね、その内思い出しますよ」

それから数日が過ぎた。窓の向こうでは、雨が降り続く。
「この間、お前から頼まれたこと、思い出したよ。何だと思う?」
「分かりませんよ、分かったら、すぐ、あなたに頼んでいますよ」
「そうか、その内キット分かることなんだがなー」
「それは何ですの?」
「大したことじゃないさ。今、言うのも、やるのも、お預けにしておこう」
「…………」

さらに半月たった。梅雨も明けそうな、蒸し暑い日の夕食の時だ。
家内は、ウキウキした顔で、
「あなた、あなた。思い出しましたよ、あれを」
「…………」
今日も主語を省略して、食卓の下に隠れる脛を、ボリボリ掻きながら、
「網戸に穴が開いていたことでしょう?」
猫は、食卓の椅子の上にグタリと寝そべり、両手両足を伸ばし、何時よりも大きな欠伸をした。

(三)

秋も深まった頃。
家内と娘の二人が、出かける朝のことだ。
姉が、妹に向かって、
「私のセーター、この間着て行ったでしょう、どこへやったのよ、勝手に着ないでよっ」
妹はその答えを返さずに、
「それより、携帯電話が見付からないよ。お父さんの携帯で私の電話を鳴らしてよ」
言い終えると、
「お母さん、シャツにアイロンかけてよ」
「今、それどころじゃないのっ、お父さんに頼みなさいよっ」
キッパリと、親の威厳ではねつけ、今度は顔を私に向けると、
「今日は早出なの、悪いけど台所の洗い物をお願いしますね」
家内は家中を駆け回り、ガシャリと金属性の玄関ドアを閉めた。すると、そのドアが再び開く。
「そうそう、悪いけど、洗濯物を取り込んでくれるといいんですが、四時頃がいいですね」
言い放つと、前より大きな音を立て、扉が閉まった。
悪いけど=@その言葉は、本来の意味を持ってはいなかった。物を頼む時の枕詞なのだ。
朝から、ドタドタ、ガミガミ、と、台風の暴風圏内にいるかのような有様だ。
女三人が出て行った。ホットため息をつき、テレビを眺める。台風十三号がこちらの方面に向かっている。
騒然とする我が家の居間から、難を逃れていたメス猫が、どこからか這い出して来た。「ニャアー」と鳴いた。「飯を食べさせろ」そう聞こえた。
「ご主人さまだって、朝飯まだだよー」

(四)

木枯らしが吹き、寒い日が続く。
「お父さん、今晩は大分冷えるようですって。夕飯のお汁は、トン汁にしたらいいわよね?」
出かけに家内が言った。その返事を待たずに、ドタドタ、ガシャリと玄関を出て行った。
「また、あの言葉か……」
と口をついて出た。
止むを得ず冷蔵庫の中を覗く。
ダイコンとニンジンとゴボウとコンニャク。――あっ、ジャガイモがない。あれ、豚肉もないじゃないか。端折るか……、トンなしトン汁???。そんな物を作ったら、何を言われるか分からない。迷った挙句に、しぶしぶとスーパーへ出かけた。
やがて夕食になった。家内はトン汁をひと啜りするなり、二人の娘に言った。
「このトン汁、美味いでしょう?」
「そうね、いつものと味が違うわね」
その味が好いのか、好くないのか、分からない言い方だ。
「お父さんが作ってくれたのよ。私のより、ずっと美味いでしょう?」
家内は、娘に押しつけるような口調で言った
二人は口々に、「そうね」「かもね」と曖昧に答える。
家内の「私のより美味いでしょう」の言い方に、ある種の策謀の臭いがして来た。
また「○○○、したらいいわよね?」の彼女の言い回しには、その「○○○」を一旦実行すれば、いつしか専任の仕事として、しっかりと割り付けられてしまう。その言葉は、まるで魔女の囁きのように、耳にへばりついて来る。
猫は炬燵の掛け布団の端に座り、手足を舐めまわしていた。

(五)

あと一週間ほどで、今年も終わりだ。
あれやこれやと、雑事が日々押し寄せて来る。それは、引いて行かない波のようだ。その波をしっかりと受け止めて行かなければ、心安らぐ充実した明日はやって来ないのだろう……。
年に一度の○○○、やったらいいわよね
それは、同意を求めるのか、それともお願いか、いや、命令に近いものなのか……。その不可解話法が、手ぐすね引いて待っている。
雑多な用事が、来年もしぶとくやって来るのだろう。       (了)    
                      
           平成二十二年六月十一日  原稿用紙九枚