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                                1995年卒業 野村 拓志

『原稿用紙を友として』

 野田さんからバトンを受け継いだ、野村と申します。卒業後、農業専門の新聞社にいます。実は、野田さんから話があった時点で人事異動があり、2月から青森、秋田、岩手3県をカバーする、岩手駐在として盛岡市で働いています。我が社には高経大卒業生が私を含めて4人もおり、ちょっとした勢力です。自分自身は高校から新聞作りに参加し、高経大新聞会、そして現在まで新聞記者として過ごし、今もコンピュータ画面上にあるマス目に記事を入力する日々です。そういう意味では高校入学から21年の間、原稿用紙を友としてきたと言えます。

 新聞会を含めた学生のアマチュアと今のプロでやっていることは同じでも、その内実はまったく違うと痛感します。アマの時代は自分の好きな取材テーマを自由に選び、それを自分の思うように書き、自分の思い通りに紙面に掲載することができました。今では、プロとして記事を書く以上、きちんとテーマを選び、その内容が読者の役に立つものか、不快な表現はないか、思い込みや意見の押し付けになっていないか、何よりも個人の感情のみの内容になっていないかなど、確認すべきことはいくつもあります。それらを守らないと、紙面には出せません。

 今、インターネットでの情報収集、表現が盛んになる一方、マスコミが事実を報道してこなかったような言い分が横行し、インターネットで活動するのが正義といわんばかりの風潮になっています。でも、本当にそうでしょうか?

 確かに、ネットは無限ともいえる情報の収容力もあり、多くの人が自由に表現できます。そのため、今まで既存のマスコミに出なかった情報が出るようになった、それは事実です。しかし、その無限さゆえに相反する意見が収容できる反面、批判には耳を傾けず、自分に都合のいい意見や情報ばかり見て、言って満足している。そんな気がします。

 マスコミは紙面や電波、時間といった制約の中で、どの情報を出すか選択を迫られます。その中で各社の個性も出てきます。ただし、マスコミはその倫理として誰にでも門戸を開くよう求められます。ちなみに、日本新聞協会が制定した新聞倫理綱領には「独立と寛容」の項目があり、異なる意見であっても紙面を提供することが求められます。そうした制約の中で、万人に広く要約して情報を伝え続けた、それが既存マスコミではないかと思います。

 こうした視点から見ると、インターネットはアマチュア新聞の延長上にある世界(ただし、プロも混じっている)、と思えます。だからこそ、既存のマスコミに表現を批判されただけで「偏向している」「間違っている」「でたらめを書いている」などという人も出てくる。その批判を正義といわんばかりに支持する人が多く集まり、ますますその周りだけで発言する。たまに批判する人が現れると、その人をさまざまな形で攻撃する。そんな感じがします。

 確かに自分の意見を肯定する人だけなら、気持ちもいいでしょう。しかし、批判に堪えうる論拠を作る努力をしないままでは、批判に反発して最後は感情論に行ってしまう危険があります。そんな社会が本当に素晴らしいのでしょうか?インターネットは万能ではない。そのことをもう一度、社会全体で認識しないと、本当に「精神年齢が低い」社会になっていくような気がするのは私の思い込みでしょうか。

(おわり)