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                                1993年卒業 金沢 宏典

『所感このごろ』

 このリレー随想において2010年最初の、しかもめでたい88人目のバトンを引き継ぎ、記事を書くことになった。せっかくなので、過去のトレンドとはかなり 方向が異なる内容になるが、自分の当節の所感を書いてみたい。

 KYという言葉が世に登場して久しい。自分はこういう浮薄な、標語のように安直に用いられる言葉に正直食傷気味である。もっと踏み込んでいうとKY的対処は、論理的な判断の妨げになるという意味で、人としての退化ですらあると思う。リスクヘッジの能力だけは突出して高くなるかもしれないが、状況は千差万別であれ、周りも基本的にKY優先、波風を立てたくないという空気が支配していれば行き着く先は非生産的馴れ合いになる。

 ノーリスク、ハイリターンの需要が跋扈し続け、マスコミが発信する流行の言葉に乗り、Web上の記事を盲目的に我が目で確認した事実であるかのように受け入れて、その結果、自分に都合のいいキーワード、趣向で武装した、相対的視点を失したKYが出来上がっているのが今日日の世相である。残念なことに、右も左も世の中この流れにどっぶり浸かっていて、何に価値があるのか、直感的、論理的に評価を与えることが難しくなっている。ざっくり言い換えれば街中、KYにならないように必死なのである。自分だけはKYではない、自分の考えは正しいと浮説を拠りどころにした自尊心旺盛な人間と、その逆に、一旦自分に貼られたKYのレッテルの呪縛から脱出できない、指向性が真逆の、これまた自尊心の高い人間が途切れなく生産されていく。

 みんな自分が可愛くて詮方ないのだけれど果たして自分の価値は世の中でどれだけのものなのか、自分の社会貢献度がどれほど世間に認められているのか。大概の場合、万人が認める成果は限りなくゼロに近く、そればかりか、巨視的に見て、こんなに可愛い自分は社会からなんとも思われていないのである。

 まずこの視点がスタートなのだ。現在の自分の境遇を憂いてその責任を社会その他に転嫁しても、決して誰も責任をとってはくれない。至極普通な話なのだが、再思三省の末、自ら社会の責任を自覚してそれを果たしていくしかないのだ。これは自分自身を棚上げすることとは全く違い、群れない「強い」自分を作り上げる。その時に、あふれた塵芥な自尊心は不要で人の言葉を借りれば、「何が正しいのか考える」ことが必要なのである。