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「あるOBの高経大時代の生活」
                                1982年卒業 長崎 禎

 前ランナー永山 英夫先輩からバトンを頂きました。メタボ気味の腹をゆすりつつ走らせて頂きます。
 さて、私も母校と同じ51歳となり、ふっと学生時代のことを思い出す事が多くなりました。50年史にもありましたが、家事で「俺はどうせ行けないんだから」と諦めていた私は、帰省中の友人たちに会う為、図書館にいました。そこで、何気なく開いた受験雑誌に市立高崎経済大学の広告が掲載されておりました。また違うページに「朝日奨学生制度」の紹介がありました。お!これなら両親を説得できると思いました。翌日、父から「やってみんしゃい。」との返事を貰い、朝日奨学会に連絡を入れ面接日も決まりました。面接日の前に福岡市会場で受験をしました。随分多くの先生・学生さんが手伝いにこられてました。試験に入る前の試験説明で本学の説明は短くも熱い気持ちを伝えてくれました。そして、通日後合格し、朝日奨学生となる手続きをしました。勿論九州からこれまで出た事はなく、群馬県については草津・養蚕・赤城の子守唄以外何にも知りませんでした。社会科の教員になろうとするなら余計に経済の勉強をしろ。」という父の薦めもあり、入学式前日、有楽町の朝日新聞社内で手続きをし、夕方必着で高崎に到着する事ができました。当時高崎駅は木造で薄暗いが、堂々とした駅舎でした。ホームで食べたうどんのスープは九州と違い真っ黒なのにはたまげました。新聞店から迎えに来てくださり、着いた店は大学の数百メートル手前でした。その日は挨拶をして晩飯は近くの青木食堂でした。ささやかながら歓迎会を兼ねたものでした。青木食堂には婆ちゃん、奥さん、双子の娘さんがおり、蒟蒻屋に勤務の御主人も加わって、「あんちゃん九州から来たん」「そうなんかい?」「九州男児だいね。」と代わる代わる質問攻めでした。この食堂の2階に親友となる小金沢勝一君(富岡高校出身)が住んでました。  
 翌日、店仕事の説明後、小金沢君と入学式に参加しました。嬉しさより榛名颪(おろし)の強さと蚕の餌になる桑畑が点在する寒々とした光景は「これが群馬だ。」と納得させられました。式が終えてすぐさま店に戻りました。店に帰るとすぐに担当の区域の順路を覚えなくてはいけません。配達する主任の後ろから順路帳をみながら、配達する家と新聞の置き場所を確認し記憶してゆかねばなりません。下小塙・上小塙地区400部前後を回ります。1週間位で全ての家と配達する新聞名を覚える事ができましたが、野放しの犬や飛びかかってくる雄鶏には泣かされました。また、榛名颪に向かって走るバイクが風力で止まってしまうやら新聞が飛ばされるやら桑畑の枝で破れるやら、散々でした。月末の集金では学生の下宿が大半でしたので捕まえるのに大変でした。が、多くの先輩方にかわいがってもらう事が出来ました。店の2階に住むことができましたが、所長さんの家族・高校生バイトと一緒に住んでましたので、それは賑やかでした。そのせいかホームシックにはかかることがありませんでした。程なく、高経大のアルバイトものべ6人入ってきました。当時、年に10回ほどの休刊日を待ちわびて、(現在は週休制度を各店実施のようです)所長や主任の家族・アルバイトと、スキー、スケート、渓流釣り等、群馬ならではの自然の恵みを堪能しました。今でも当時の習慣で、いくら酔ってても夜中の3時〜3時半に「しまった寝坊したか?配達に遅れるぞ。」と、目が覚める時があります。つらい習慣です。 その後、店のお嬢さん2人も思春期を迎える頃となり、店を出て、秀才の多い下小塙の「大山イキ下宿」に1年、また、上級生がいなくなった上小塙の「小島啓介下宿」に2年やっかいになりました。毎週のように宴会を開き、勉強にサークルにバイトに下級生たちが頑張って胸を張って巣立っていったと聞いてます。私は、不幸にも郷里に教員採用の枠が無い年で受験したものの採用待ちの猶予には従えませんでした。真保ゼミの最終レポートに取り組みながら、田舎の中学・高校の吹奏楽部の顧問になる夢は断念する決心を固めました。高崎市民吹奏楽団に所属していたご縁で顧問の熊井正之先生や永長信一氏(後の全日本吹奏楽連名理事長)からも、産休補助教員をしながら東京農大二高吹奏楽部を手伝い高崎に残る事もお話も頂きました。最後の賭けで受けた大手町の企業面接は失敗でした。
 
 紅葉が色づくころ、老川孝光所長から連絡があり、卒業祝に洋服を作ってくださることになりました。翌日から1週間、所長を助手席に乗せ、区域内を案内しました。期間内に拡張成約件数は朝日のみで約100件。プロの勧誘員の倍以上の成績です。そのはず、所長は、関東1の拡張組織「老川団(後に野口団)の2代目」でした。所長の神業をまのあたりに見せ付けられ唖然としてるうちに店に着くなり、洋服屋さんが寸法を計りにきてくれました。私の洋服費用を作る為に、勧誘に連れて行き、自ら勧誘をやり全てを賄ってくれました。

 数日後、朝日新聞社の担当員さんから下宿に電話があり東京に1回遊びにおいでとの誘いがありました。東京には4年で数回しか行った事がなく、築地の本社になんとかたどりつきました。2Fロビーの喫茶室に案内されてずらり座られた10人近い初老の方々が一斉に、にこにこ迎えて下さいました。「初めてここに来たの?」「タカミツちゃん元気かい?」「卒論は済んだか?」等代わる代わる質問をしてきます。何度か新聞や雑誌で見た人や聞いた名前の人たちばかりでした。これが、役員面接とは知りませんでした。程なく朝日新聞社の入社試験案内がきました。新聞社を受ける事を考えた事がなかった為、希望は記者・編集のみ記入、所長の思惑はハズレ、販売希望蘭に記入しなかったのが失敗でした。

 結果は予想通りダメ、その代わり「販売局預かりとして新聞折込の会社に来ないか。私が創った会社だ。忙しいぞ。」「はい」と返事せざるをえませんでした。声の主は、後の朝日新聞東京本社常務取締役一力英夫氏(東北のブロック紙河北新報社主の御曹司)でした。その入社から間もなく27年になろうとしています。高経大の一OBとして恥ずかしくないように走り続けてまいったつもりです。真保ゼミの同級生も全国ばらばらに散っております。在京組もそれぞれ勤務時間、休みが合わない事もあり一緒に東京三扇会総会参加はいまだにかなってませんが、近い将来雁首揃えて出席したいと思います。

 私は幸いにも、人との良き出会が私を良い方向に導びいているようです。@まず、偶然見た雑誌により新聞奨学生になった事で、家の事情にとらわれず、自力で高経大に行けた事。(三年間勤務で4年間の学費・住居費・食事免除の制度です。きついですが誰でも、きっとやりとげられます。)A新聞店や青木食堂・大山イキ・小島啓介さんの御一家、3年間在籍した高崎市民吹奏楽団の皆様、高経大応援団付属吹奏楽団創設にかかわった皆様、教職研究会立ち上げに全面的に御協力頂きました上岡國男先生。なによりも、真保ゼミでは真保先生をはじめ先輩たちから未知の社会と、そのしくみの深さと、仲間の大切さを教えて頂きました。4年間無事新聞配達の仕事を黙って見守ってくれた高崎観音の優しさは高崎でであった女性全てに通じるものがありました。残念ながら、未だに観音様に匹敵する理想の女性に巡り会う事はありません。某先輩のようにナンパも妥協も出来ん男です。
 
 最後に、東京三扇会では素晴らしい先輩・後輩と出会う事ができました。在京のOB・OGの方々にどんどん顔を出して頂き少しでも高崎での青春時代を思い出し、終生語り合いましょうではありませんか。