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【遠い北の大地からとりとめもなく高崎を想う】
1989年卒業 長井 秀和(北海道)
田中和浩さんから大役を仰せつかりました長井秀和でございます。
最近テレビで「間違いない!」というフレーズで人気を集めつつある同姓同名のタレントがいるそうですが、
私とは何の関係もありません。在学時代、経理研究部において田中さんの1年後輩であったご縁で今回執筆さ
せていただくことになりました。
私が高崎経済大学を卒業したのは、元号が昭和から平成になって間もない平成元年3月であります(故小渕
恵三官房長官の年明け間もない記者会見が印象的でした)。したがいましてちょうど15年もの歳月が過ぎ去っ
たことになります。にもかかわらず、在学時代の4年間のことをかなり鮮明に記憶しているのは、自らの人生の
中で得難い貴重な数多くの経験をした時期であったためでしょう。生まれ育った北海道を初めて離れ、電話もな
い下宿部屋でゴキブリの幻影におびえながらの一人暮らしが始まり(当時北海道にはゴキブリはいなかった)、
当初は心細い日々が続きました。しかし、すぐに友達ができ、講義もそこそこにアルバイトに汗を流し、酒を飲
みながら時には朝まで仲間との議論に明け暮れ、何にも縛られない自由を謳歌した4年間でありました。田舎者の
私にとりまして高崎は東京にもそこそこ近く(確かJRの快速で1時間半、私が在学中に新幹線も開通)、それほ
ど都会でもなく(地元の方には失礼でしょうか)、大学もそれほど多い地ではないことからアルバイトの労働力
も売り手市場であり(確か当時は東京よりも時給が高かった)、いつの時代に戻りたいかと問われれば、何の迷
いもなく大学時代と即答致します。
高崎の街は今どうなっているでしょうか。アルバイトをしていた「恋文横丁」は福田さんの随想によるとなく
なっているとのことですが、よく通っていた店、「荒磯」や「GGC」はまだやっているでしようか(最近は昨日
のことでも結構忘れてしまうのに、荒磯のマスターやGGCのおばさんの顔はなぜかはっきりと覚えています)。
校舎は随分立派になったと聞いていますが…。卒業してしばらくは東京勤務だった為、時々高崎を訪問していま
したが、数年前札幌に戻ってからはご無沙汰しています。いずれ折を見て訪れ、自分の足跡を確認したいと思っ
ています。
さて、卒業後の15年間にも様々なことがありました。就職して、結婚して、子供が生まれ、勤める会社が経営
破綻し、転職して、家を建て、現在に至っています。実は私も前出の田中和浩さんと同じ某都市銀行に入行し、
平成9年に経営破綻したことを受け、現在は地元北海道の某金融機関に所属しています。某都市銀行時代にはリク
ルーターと称して学生の採用に長年携わり、当時はひとりでも多くの高経の後輩に希望の就職を果たしてもらいた
いとの一心ではありましたが、結果として多くの後輩にとって苦難の橋渡し役となってしまったことを大変申し訳
なく思っています。
このように様々なことを経験しながらも私自身これまで何とかやってくることができましたのは、家族や友人の
おかげであることは言うまでもありませんが、学生時代の経験が大きな糧になっているものと痛感しています。も
し、あの時地元の大学に入学し親元での生活を続けていたら、どんな人生になっていたのか全く想像すらできませ
ん。そう考えると大学時代は我が人生にとって誠に大きな分岐点であったと言っても過言ではないと考えています。
気がつけば来年には40歳の大台を迎えます。大学当時私にとって40歳男性といえば完全な「おじさん」でありま
した。自分がそうなりつつある実感は全くありませんが、客観的に見ればそうなっているのでしょう。しかしながら、
日本人の平均寿命を考えればまだまだ5合目です。もしかしたら人生はあと半分残っているのかもしれません。これから
はいろいろな意味で年々制約が増えていくのはやむを得ないことですが、それにしても様々な経験をする多くの時間が
あるのは間違いなさそうです。大学時代のような「よき時代」を創るためにはどうすればよいのでしょうか。
それには新しいもの、未経験のことにたじろがないということが必要なのではないでしょうか。学生時代はあらゆる
意味で未知の世界に自ら踏み込んでいたような気がします。そうすることによって多くのものを得ていたのだと思いま
す。勿論現在は守らなければならないものがあり、当時のような自由度の高い行動は許されません。しかし、許容範囲
内で新たなものに挑戦する余地はまだまだ大きく残されているような気がします。年々保守的に、殻に閉じこもりがち
になっている自分を強く感じています。その点に常に自戒の念を持ち、多くのものを吸収し、自らの人生の中で大学時
代に次ぐ「よき時代」を創って行きたいものだと考えています。
さて来月号においては経理研究部時代の同級生で、卒業後もお互いの結婚式の司会を務めあった仲であり、東京―札幌
と離れてからも深い親交を維持している無二の親友、「太田 亮一君」にバトンを渡したいと思います。